Heavens Feelの解釈

桜ルートはあまり好かれていないと耳にする。私は個人的に好きなルートだが、それでも読んでいるときは痛いと思い読むことが辛いと感じた。だが、ふと辛い出来事しかこのルートにはないというのが、一体何故なのかと疑問に思った。このゲームは士郎視点で進行するので、ヒロインである桜の心情はこちらが彼女の行動から推測するしかない。よく見られるのが彼女の二律背反的な態度。行動に矛盾が多いというのだろうか。それがどうしても本編の中で消化することが出来なかった。それでも作品の中に伝えたいことがあるのかもしれないと思い、少々考察を試みることにする。

桜が周囲と関係性をもつ場合他者依存が主で、能動的に行動することは無く、ある事柄に関して以外はほぼ全ての事項を受け入れてしまう。そういう風になるように育てられ、生きてきたからだろう。何か行動するにも、誰かが助けれくれるかもしれない、誰かが後から来て全てを拭い去ってくれるかもしれないという無意識の願望を抱いている。だが同時に、自分はどうせ助からない、だから受け入れよう、それが楽だからという意思もある。その二つの意思が桜と周りの人間の事態を悪化させ苦しめる。桜はそれを無意識で思考しているため、何かが起こったとしてもそれが自分のせいだということが意識には上らないだが無意識下では知っている

逆に士郎は逆の属性を持つ。彼の理想はともかくとして、本質は自分をなげうってでも、寧ろ自分の存在を無視して相手に奉仕しようとする意思だろう。これはセイバー、凛、桜それぞれのルート全てに共通する。

問題は、セイバーや凛がその彼の無意識の本質に気付き叱責する第三者の目をもっており、いつも引き戻す人がいたお陰で士郎は危ない立場から戻ることが出来たという点である。セイバーは士郎と同様に過ちに気付けなかったが二人同時にそのことに気付き、凛は最初から士郎の過ちに気付き強制的に引き戻した、ということが二つのルートの士郎がその過ちにいつ気付くかという点において違う。そして、桜には士郎を引き戻す力も無く、まして桜ルートには過ちに気付く場面など、展開が絶望的になるまで選択肢が出てこない。

それは彼ら二人は鍵と鍵穴の関係、共依存の関係にあったからだといえる。共依存とは、主にアルコール依存症の夫が妻に暴力を振るいそれをいつまでも受け入れている妻、ということに代表される分類だが、この場合、夫は桜、妻は士郎ということになる。身を投げ打ってまで尽くすほうが士郎で、桜はそれを貪欲にただ受け止める性質を持つ。桜が嫌われるという理由もここにあるのだろう。

凛ルートまでは理想が云々と言っていた士郎が、このルートではどうしようもなく受身で事態にただ流されるだけの人間になっている。桜もまた然りで、まるでお互いがお互いを絡め合い、千仭の谷底に転げ落ちていく様が想像される。これが、他二つのルートでは見られなかった士郎が抱く理想という狂気の鏡合わせであるもう一つの狂気だろう。彼らはその状態をお互いに辛い選択であるにも関わらず受け入れ、満足しているのだ。だから絶望的展開になるまで自分が間違っていたことに思いつきもしない。

桜ルートの桜は絶対に一生涯救われないという人間だった。全てが谷底へと転がり落ち、延々と誰かが傷つくこと、自分が傷つくところを見せられ続ける。

それが最後で救われる──といっても桜が生きていることで犠牲になった者も多いが誰かを犠牲にしてしまう救い、とでもいうのか、そのような形で桜は幸せだと言える事ができたのだと思いたい。あれは凛に言ったのではなく、犠牲にした心や過去や人達に言ったのではないか。自分が幸せになることが、贖罪であり義務なのだと理解したからではないのか。そうでなければ、桜はどうして他を犠牲にしてまで生き残ったのか。桜がここで幸せにならなかったら他者の犠牲は無為にならないか。…と考えていけば、桜は桜なりの回答を得たのだろうと思えるのだ。丁度、アーチャーが自らの贖罪の為に自分を殺そうとしたのと正反対の方法。

セイバールート、凛ルートでは救われる対象が士郎だった。

ゆえに、士郎は救われる存在から、本当の意味で救う存在へとなったのだといえる。

シナリオとしては全ユーザーが満足するものではないようだが、Fateとしての本質を貫いているシナリオといえるだろう。

と、少々無理矢理感のある納得の仕方だが、読むことが辛いと思いながらも、感動したシナリオだと感じたということは変わらない。

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