Al Seizoen

Pflaume

透明なプラスチックに赤い蓋という、100円均一市で売られているようないかにも安物としか見られないような品質の瓶が居間へと置かれている。原因はそれであるだろうことを凛は瞬時に悟った。蓋の赤い色と中身の白さ、そしてそこから漂う奇妙な匂いが、気味の悪さを一層露呈していた。

「ね、士郎。これ、何」

涙が出そうな刺激に凛は訥々として喋る。士郎は居間の奥の調理場で何やら作業をしていた。だのに士郎は平然と鼻歌まで鳴らしながら立っているではないか。寧ろ、この「臭い」をかぐわかしそうに嗅いでいる感もその雰囲気から感じ取ることが出来る。何を作業しているのかと思えば、その白い物を小皿に取り出している。その様子に、遠坂凛にあるまじき、「うげ」という声が口を吐いて出ていた。

「なんだ、遠坂。この匂い苦手か?」

「苦手か、とか匂うか、とかそんなレベルの話じゃないわよ……もう。今すぐ此処からそれを撤去して欲しいし、既に異臭よ、異臭」

「そうか?」と言いながら士郎はその小皿に乗った物を嗅いだ。「別にそうでもないぞ」とあっけらかんとした返事が凛へと返ってきた。その異臭はまず彼の足元にある赤い瓶から漂ってきていることは明白である。居間に充満し、あろうことか部屋の檜の気分落ち着く香りを蹂躙している。そんな異臭に誘われたのか、セイバーも居間へとやってきた。

「この匂いはもしかして──らっきょう」

その縦長の瓶に入っている物体こそ、らっきょうという存在であることを凛は知っていた。酢酸、そしてらっきょう本来の持つ吸血鬼対策にも有効だと思われる成分という全く異質の成分が混成されて異臭と成り果ててしまったモノ。

「蔵でずっと漬けてあったもんだから取り出してきた」

「だから、そんなに匂いが、篭ってるわけだ」

「ああ」

またしてもはぁ、と溜息をつき、壁に手をつく落胆のジェスチャー。ところがセイバーはというと、

「なんと、シロウ。それはらっきょうという食べ物ですか。異国には不思議な食べ物が多くあるのですね。切嗣が生きていた時にはそのようなものを食べさせて貰えなかった。もしよろしければ、シロウ、それをひとつ頂けませんか」

と申した。

「ちょ、ちょちょ、ちょっと、セイバー?」

「なんでしょう、リン」

「何でよ、もう。明らかにあれは食べ物じゃないわ。もしかして、食事になる度にあのらっきょうの蓋を開けて食事に勤しむなんてことするんじゃないでしょうね。言っておくけど、そんなことはこのわたしが許さな──いこともないけど、せめて匂いくらいはなんとかしてほしいわね」

「リンはもしかして、このらっきょうというものが苦手なのですか」

「苦手というほどじゃないけど。この起床の気分、もとい家全体の空気を揺るがす物体の存在が憎々しいだけよ」

「そのようなものですか」

「そのようなものよ」

凛はそっぽを向き、鼻腔から匂いが入らないように鼻を強く摘んでいる。

「とりあえずこのらっきょうをなんとかしてよね、士郎」

「あ、ああ……まぁ遠坂が嫌いってんなら仕方ないか」

「嫌いなんて言ってないじゃない。匂いがつくのが嫌なだけよ」

「そうか、俺も実を言うと苦手なものがあるしな。気持ちはわかる」

その瞬間最大風速にして刹那、二つの突風が吹き荒ぶようにして、目を見開き士郎に向かい「ええええ」という今にも家を吹き飛ばさん限りの大声を発した。屋根伝いに近所へとその声は向かい、塀の上で昼寝ている猫をも起こす勢いだ。士郎は耳を塞ぐことでその突風を防ぐが、それも一時凌ぎに過ぎない。

「なんでよ」

「何故ですか」

同時に発せられる二人の声は、今や完全に一致している。

「あ──う」

狼狽える暇すらなく、ただこうやって目の前の突風をどう防ごうかということばかりに士郎は腐心していた。失言──と士郎は思うが時は既に遅しとよく言われるように、士郎の目の前に居る女性二人は心ならずも一致団結し、謎を暴こうとしている。

士郎が観念し「わかった、言う」と真面目な顔つきをすると、二人は顔を寄せぐぐっと士郎に注目した。

「実は、嫌いというのは梅こぶ茶なんだ」

固まった。

何かが固まった。

天草を煮て寒天になるような硬さではなく、風が鉄になるような、あまりにも歪な原始変換。

「ええっと、それは何かの冗談かしら、衛宮くん」

凛は満面の笑みを浮かべている。まるで菩薩と般若を足して二で割ったようなわけのわからない表情だ──と考えたところで、士郎はそれをそのまま口にして出していることに気付く。凛の笑みがさらに深まったところで、士郎の身体は捕らえられることとなる。

「シロウ、あなたはバカだ」

「で」

誰ともなく、接続の助詞で以て繋げ、まとまらず分散した話に結論を出そうと切り出された。

「悪かったわね。士郎がいきなり変なこと言うものだからこっちまで変な顔になっちゃって。そうね、一応理由は聞いておこうかしら」

「変なこと、っていうか。問いただしたのは遠坂のほうじゃないか」

「はいはい、思ったことすぐ口に出さない──で、どうなのよ」

半ば呆れ顔で凛は士郎の答えを促す。

「特に理由といったものはないんだよな」

「ふぅん。でも士郎にしては珍しいじゃない? あれほど凄い料理を作るあんたに嫌いな食べ物が存在するなんて、古今東西大食のセイバーじゃなくても信じられないわよ。考えてみれば食卓に梅が並ぶことってそんなになかったし、思い出せば士郎はあまり梅をつつくこともなかったわね」

「リン、先ほどの発言は訂正して頂きたい。わたしは決して大喰らいではありません。ついでに言っておくと古今東西にセイバーが存在するのかという問題が……」

「じゃあいいわ。思いつくだけ言ってみなさい」

凛はセイバーの突っ込みを無視し士郎に続けるよう促す。セイバーは「聞いているのですか、リン」と凛の後方で喚き立てていた。

「ん、先ずは確か梅が嫌いになったんだと思う。多分じいさん──あ、切嗣のことなんだけど、じいさんが梅好きだったんだよな……それでいつもいつも梅を食べるようすすめてきたものだから、ちょっと苦手になったんじゃないかな。小さい頃だし、ほとんど覚えてないけど。まぁ、食事やなんやかんやは俺がつくってたから梅が入った料理というのをあまり考えてなくて、それでいてじいさんは梅ばっかり出してたからっていうのが理由なんだろうな。まぁ、それも今では平気になってる。子どもの頃って食べ物には意外と敏感でうまいものはうまいし、まずいものはまずいとはっきり区別するから」

「でもそれなら、梅こぶ茶はどうなるのよ」

「ああ、これから話す。ええと……梅こぶ茶は──まずい」

「はい?」

「うまいと思えないんだ、こればっかりは。遠坂に無理やり飲ませられても、セイバーに梅こぶ茶を催促されようと、俺は、これだけはきっと墓の中までまずいという思いを抱きつつ行くだろう」

「シロウ……」

何故こんなにもうまいものが食べられないのか、とでも言うように、哀れむような目を瞬かせながらセイバーは嘆息する。

「梅だけが苦手だったものが、どんどん梅全体にまで拡がっていったんだ。で、当然梅こぶ茶もその範疇に入る。梅自体に対する苦手意識はどんどんなくなっていったんだけど、逆に梅こぶ茶だけは、その不味さと既に茶とすらいえないあの香りでどんどん苦手になっていったんだ。どこが苦手かと言われてもちょっと困る。こればっかりは説明できない」

士郎は一息にその胸中を語った。二人は呆然とした面持ちで士郎の告白を聞いていた。

「そうなの──」

凛は士郎の言葉よりもその様子に逡巡しつつ言った。

「──あ、すまん。二人に失礼だよな、こんな話……」

それを好きな人だっているんだから、こんなこと言われても困るよな、と士郎は沈鬱な面持ちで続けた。

「なんで謝るのよ、いいじゃない。嫌いなものがあったって」

「リンの言うとおりです、シロウ」

凛は微笑みながら、らっきょうの傍まで近寄り匂いを嗅いだ。

「う、わたしもコレが苦手と言えるし、士郎にだってそういうのは苦手だってちゃんと話したわよね。ちょっと供述が長かったけど……でもそうやって苦手なものを言うのは良いことよ。寧ろあんたにとっては必要なことよね」

「そう、なのか?」

「そうよ」

凛はらっきょうの置かれた瓶の隣でごそごそと作業していた。

「ただでさえあんたは自分から主張することが少ないのよ。自覚ないんだろうけど。士郎は思ったことをすぐ口に出す癖があるけど、それは主張とは違うわ。主張っていうのは自分の好悪を言葉に絡めて出すってことで、思ったことをそのまま口にするのは疑問や感想をオブラートに載せないまま言うってことで、全く意味が違うのよ。つまりあんたは好悪をオブラートに載せないまま言う癖があるにも関わらず、嫌いなものを言うことが少ない──どういうことかわかる? 要するに、士郎はもっと嫌いなものを作りなさいってこと。それが健全な思考を形成するんだから──と、あったあった」

「何があったんだ?」

「セイバー、これ、一緒に飲みましょう」

凛の手中に握られた筒状の入れ物は濃いピンク色をしており、なにやら花のマークが端にちょこんと描かれていた。それは間違う事なき梅こぶ茶。

「あのな……」

「ん? なぁに、衛宮くん」

「──俺は部屋に戻ってる」

苦笑いをしそそくさと部屋をあとにする──つもりであった士郎は凛に首の裾を持たれることで取り押さえられる。

「待ちなさい、士郎」

「なんでだ、俺は飲めないんだって」

「一家の大黒柱もとい主夫のあんたに苦手なものがあるってのが言語道断」

「いや、もといって──それを言うなら、逆だろ」

今にも沸騰しそうにヤカンの口から湯気が出ていることに気付いた凛はコンロの火を止め、カップに筒からとりだした粉をスプーンで測り、人数分入れていく。

「そうか、藤ねぇがいるからか」

などと、三人分のカップを眺めながら士郎は敢えてとぼけたことを言ってみる。

「見てなさい、絶対に士郎が飲められるような美味しい梅こぶ茶を作ってみせるんだから。そして、おいしいって言わせてみせるんだから──」

──うん、絶対に拒否は無理だな。

かちゃかちゃと鳴るカップとスプーンが互いに擦れ合う音が、これから士郎に降りかかる苦難をセイバーに思わせた。

──切嗣、今日もリンによるシロウ弄りは絶好調のようです。

襖を開けると、らっきょうの香りが風に乗って外まで運ばれていき、薫風が部屋の中に入ってくる。セイバーは、部屋の中から仄かに漂う二つの鬩ぎ合う香りを嗅ぎながら、今日の御飯はどちらの漬物で食べようかと考えていた。

Glas

あなたの身体は硝子の剣で出来ていた。

心を傷める度に剣はその互いの剣の打ち合いによって鍛え上げられる。それが、その剣が硝子の様に光を反射し輝く証。

傷つく度に精度は増していく。磨かれていく。硬質、けれどそれを一度撫でれば硝子の様に透き通って優しく反射する──

鑢、磨耗、その綺麗な硝子は次第に削れていった。けれど何かを守ろうとする限りその硝子でできた剣は決して折れない。

どんなに刃に血が飛び散りその血がその綺麗さを曇らせたとしても、輝いている。

いつまでも、いつまでも。

それは剣の丘にてただ一人。

ずっと、一人で。

「──バカ」

溢れて止まらない涙は地面へと滴下し、一滴だけ落ちたような雨模様を作った。

ここまで自分を泣かせたのはたった一人だけだ。自分の心の中にいつのまにかするりと入り、いつのまにか自分を癒していることに気付く。彼はそんな存在だ。そして頭の芯が熱くなるような感情にひどく戸惑いを覚える。その度彼を、バカ、と言うことで自分の心を紛らわす。

自分は魔術師であり、他者に心を許すことは、いつ外敵になるかもしれない人間に心を許すことと同義だ。ゆえに心を許していてもどこかで一線を引いていた。なのに彼はその一線を容易く超えてくる。

誰もその線を越えようなんて事はしてこなかった。越えても、自分が相手を突っぱねるとそれで諦める。

ほら、また同じ。

内心、良かれと思う心とまたかと思う諦観もあった。対してこうも簡単に弱音を吐き逃げ帰る人間など相応しいわけがない。魔術師に近付くということはそれだけで死に直結する。好意を持ってもらう事は少なくとも嫌な気分ではない。だが、それに対して何の返事も返すことの出来ない自分もまたある種の不甲斐なさを感じた。恋愛に関しては全く疎い。全てを「魔術師」の三文字のために切り離してきたのだから。

それでも、彼はその鬱蒼とした何年も放って置いたような藪の中をざくざくを掻き分け、ついにはラインをも超えて辿り付いてしまった。わたしは呆け、なんで、と目の前にいる彼を見つめ返すだけしかできない。

彼は童顔の少年だった面影は消え、大人びた風貌を備えた精悍な顔つきへと変わっていた。顔が熱くなるのを感じる。変わったな、なんて言うまでも無く彼の背中はかつてよりも逞しく強くなった。

かつてのあの未来と同じ顔で私を迎えた。わたしは悲しくなる。

邂逅し嬉しかったはずの笑顔は沈み、顔は俯いたままだった。

全てを乗り越えてきたかのように、答えをいつまでも胸に抱いて邁進しているかのように彼は微笑む。

でもわたしには分かる。彼は今辛い最中にいるのだと。理想は現実を変えられるものではあるけれど、現実は理想を浸蝕していく。彼だって普通の人間であって決して強いわけではない。寧ろ彼だからこそ、誰よりもその心は弱い。

──ったく、久しぶりだっていうのに、なんて顔してるのよ。

わたしは毒吐く。彼は苦笑する。

「あんたは、いっつもわたしを泣かせてばっかりね」

彼の剣は危なっかしくいつも壊れそうで、誰かが支えていないときっといつか折れてしまう。彼は答えを得たと言っていた。だから士郎、あんたはあいつに報いなきゃいけない。

このまま放って置いたらあんたは尽きない願いを抱えて望みは達成されず磨耗していくだけ。正義の味方というのは、自身の中に何も持たない空洞で、その空洞に救いたい人がすっぽりとはまってしまう。他者で埋められた自身のアイデンティティはやがて崩壊するだろう。

──だって、空洞でなきゃ相手を埋められないじゃない。

自分を粉にしなきゃ、そんな「叶うはずの願い」、出来るわけが無いでしょ。

分かってるんでしょ。

あんたはバカよ。

──アーチャー、わたしはあなたとの約束を守る。それがわたしがわたしであること、そして、士郎、何よりもあんたが大事だから。

あんたにはアーチャーのような未来を辿って欲しくない。

「英霊エミヤ」という未来のカタチは、きっとこれからも続いていく。それが、英霊となった彼を再び絶望に追いやるかもしれない。

それでも、わたしが出会った彼はわたしに言った。

「答えは得た」と。

わたしは信じるから。

この世界は、あんたが守ろうとしている世界はきっと綺麗なものだってわたしがこの手で信じさせてやる。絶望なんて、させてやらない。

わたしが、あなたの鞘になる。

「この借り、倍返しにして返してあげる」

Blutabgabe

「──あれ、献血車が停まってるな」

「あんた、まさか献血しに行くなんていうつもりじゃないでしょうね」

「む、そうだけど」

また始まった。このお人よし。

「わたしはパス。女の子の事情だけならともかくよ、魔力を宝石に溜めるためにだって血液が必要なんだから、献血なんてされたら重度の貧血になっちゃうわよ」

「あ、それならうちでほうれん草やレバニラなんか食ってくか?」

ちょっと待った。話が繋がってないわよ。

「なんで、そうなるのよ」

「だって、ほうれん草は鉄分と豊富なミネラル、加えて野菜のビタミンもある。レバニラは肉類で鉄分を摂取できる。ニラも加えたらいいかな。ちょっとくどくなるんだけど、毒をもって毒を制すというかんじで、レバニラの肉のきつい匂いとニラの匂いが消しあって、炒めると結構美味しいんだよな、これが。で、ほうれん草も和え物として付け合せたらいいか」

うんうん、と笑いながら言うんだ、こいつは。

なんだって食事の話になるとこいつはこんなに生き生きとして話すのか。やっぱり、あれか。道を目指す者の、貯蓄し経験した知識を知らず知らずのうちに薀蓄として語ってしまうという病気。

そうか、士郎はわたしが毎度貧血だと勘違いしているんだ。違うわよ。言葉のあやってのがあるじゃない。このバカ正直。このばかお人よし。──ん? なんか日本語がおかしい気もするけどまぁいいか。

「晩飯の話になってるわよ、献血はどうするの」

「ああ、してくる。ごめん、ちょっと待っててくれないか」

「しょうがないわね」

「ありがとう、遠坂」

彼はにっこりと笑って献血車の中へと入っていった。わたしが献血したくないのは、自分に流れる魔力が勿体無い、なんていうのも実はある。こんな時にも貧乏性が出てしまうのだ、わたしは。

「はぁ」

びんぼーびんぼー。

でもね、そんな中なんだって士郎は献血しようなんて思うのか。勿体無いじゃない、その、血液。自分の魔力を溜めて宝石に移すなんて、貨幣の交換みたいな保存をしている遠坂家にとっては他人に魔力を与えるなんて言語道断。一滴たりとも逃さず魔力保存したいというのが正直な話だ。

貧乏性もここまでくると神経質。

あいつのように変なところにおおらかになりたいものだわ。

と考えていると士郎はひょこっと出てきた。

「おかえり」

ぶすっとした顔で士郎を睨んだ。

「なんだよ、遠坂。何か俺悪いことしたか……?」

「した」

「──そうか、……ってええ!?」

「誰とも知らない人のために血液をあげちゃうんだ」

「それが、普通だろ」

「普通じゃない」

「む、じゃあなんのために献血するんだよ」

「したい人がいて、それを必要としている人がいるから、でしょ」

「それでいいじゃないか」

「違うわよ。わたしが言いたいのはあんた──士郎のことよ」

「あ──う、俺?」

やっぱり気付いてないんじゃない。もう、鈍い。

「そうよ。もう、知らない誰かのために血液をあげちゃうなんて、勿体ないったら勿体無い! あぁもう。まぁ、それがあんたのいいとこであって変な所なんだろうけど。やっぱりその無思慮な奔放さはつっこんで考えておかなきゃいけない課題だと思うのよね」

「……なんか、俺、愛されてるのかばかにされてるのか分からなくなってきたよ」

「そんなに他人に血液あげるくらいならわたしにくれてもいいじゃない……」

だんだん腹が立ってきた。

なんでだろう。この沸々とした怒りは。

いや、悔しさかもしれない。なんでこいつは気付かないんだろう、とか、胸の中に飛び込んで胴に拳を叩き込んでやりたい衝動。

そう言った後、士郎はぽかんと口を開けていた。

まるで、わたしの口からそんな言葉が聞けるとは思わなかった、とでも言うような顔。しかも顔を赤くしている。

ちょっと待ってよ。そんな地雷を踏むようなセリフだったのか。

今のセリフを反芻する。

別におかしくはない。

「な、何よ。だって勿体無──きゃぅっ」

え、え。わたし──士郎にキスされてる。何が起こったのか見当もつかない。

「ちょっ、ちょっとばかぁ──っ! こんなところで……っ」

──見られた。

それも周りの人間に。少なくとも、自分達が視界に入った人間はこっちを向いて、どう通り抜けたらいいのか迷ってるような風情で通り過ぎる。

ああ、恥ずかしい。

こいつには貞操観念とか、羞恥心とかないのか。きっ、と士郎を睨む。その次のセリフにわたしはぶっ飛んだ。いや、思考だけが回転しなくて、多分、そう。顔は丁度間抜けと形容するに相応しい表情だっただろう。

ある意味彼は悪魔だった。

「じゃあ、あげるから、今から帰ろうか」

こいつは、今から料理でも作ろうかなんて口調をしながら、「あくま」の微笑みで笑ったのだった。

Kirschbaum

拝啓 姉さんへ

姉さん、いかがお過ごしでしょうか。

月日の経つものは早いもので、もう5年になるのですね。

姉さんはそちらでは元気に過ごしていますか? いえ、元気に過ごされているのだろうな、と想像しなくても分かります。そちらの生活はいかがですか? 日本はいつも通り平和で、私も教会のお手伝いをさせて頂きながら士郎さんと二人で生活をしています。初めは色々な雑務に追われ生活が苦しいものがありました。士郎さんのお父さんである切嗣さんが残した、遺産や屋敷に残った貴重な調度品はいまだ手をつけていません。士郎さんがそれを使うのはやめようということでした。いろいろと苦労もありましたが、今は取り敢えず腰を落ち着けてゆっくりした毎日を送っています。

そして姉さん、私は姉さんにずっと言えなかったことがありました。多分、姉さんはそんなことわかってるわよ、なんていうと思います。笑って、きっと罪深い私を許してくれるんだと思うんです。でも、やっぱり姉さんには知って欲しくて、こうして突然ではありますがアナログでの郵便としてお渡ししています(今は電子メールという便利なものがありますが、わたしにはちょっと使いにくかったようです。よく壊して士郎さんに直してもらってばかりです)。

私が姉さんに言い忘れたことは、私もあの夕焼けの日を知っていたということです。

夕焼けの日、姉さんは多分詳細に覚えていると思います。トラウマになった、ともおっしゃっていたことを覚えています。

いろいろあったあの時に、ふと耳にして知ってしまったことです。その時知ったんです。ああ、姉さんも士郎さんが本当に好きだったんだな、って。

それから、こうも思ったんです。

士郎さんって、一見普通の人じゃないですか。周りからはいい人に見られてお人よしで、努力を怠らない勤勉な人。でもそれってどこか違うと思うんです。

私が先輩に惹かれた理由はもう分かってるんです。って、なんだか人生相談をしているようなお手紙になってしまいますよね、すみません。でももうちょっと続けさせてください。

私が士郎さんを好きな理由は、自分と似ているから、そして似ていても決定的に違うもの、正反対のものがあって丁度それがわたしが先輩を愛していて、先輩がわたしを守ってくれるとてつもない衝動になっていたのだと。五年経った今、かつての自分を反芻しています。

姉さんが先輩を好きだった理由もそうなんじゃないかって、そう思うんです。

自分が目指していても、きっとそれは自分とは違う理想で、けれどどこか守ってあげたくて。姉さんは強くて、どんな苦しい時でも立ち上がって、どんな酷いことをされても相手をやっつけて、とても強い女性だと思っていたんです。だからわたしはそんな姉さんに、私では到底出来ないことを簡単に為す姉さんにとても嫉妬していたんです。

でも、姉さんは、本当は私と似ていたんですよね。

だから、あの夕焼けの日、姉さんもわたしも、どこかかつての先輩の全てに惹かれたんです。

多分、士郎さんはまだ冥い影をひきずっています。そしてそれはわたしのせいでもあるんです。姉さんだったら、きっとそんな影を吹き飛ばすような勢いで体当たりしてしまうのだと思います。それできっと士郎さんの支えになるのだろうと。

わたしはそんなことができないから、士郎さんの中にぽっかりと空いてしまった穴を少しずつ塞いでいこうと思っています。

今までは多分生きていたけれど死んでたんです。

誰かに必要とされるように、否定されないようにというだけの目的で生きてきました。空洞を埋める人を求めるために。

士郎さんは誰かを救うために、誰も死なせたくないという目的で生きてきたんだと思います。そしてそれは自分の空洞を埋める為でした。

鍵と鍵穴という表現は男女の関係でもよく表現されますけれど、鞘と剣、鍵と鍵穴、そんな関係だからこそ、わたしは士郎さんに何かしてあげられるのだと思います。

わたし、何のために生まれたのかななんてよく思っていました。

お爺さまには必要とされ、それがどんなに苦難を強いるものでもわたしは耐えてきました。でも愛情の無い必要性なんてただ歪んでいくだけですよね。兄さんには寧ろ邪魔者扱いされてきましたし、わたしが生きている必要性はどこにもないんじゃないかって思ってたんです。

でも、姉さん、わたし生きていることって何なのか、やっと分かった気がするんです。

士郎さんが傍に居ることで、わたしはわたしとして生きることが出来る。

頑張りたい、士郎さんに幸せになって欲しい、そう心から思います。

そして、姉さんにも幸せになって欲しい。

とてもひどい喧嘩をしてしまったこともありましたね。あの時のことを思い出すととても恥ずかしく、とても苦しいと感じます。大勢の命を奪ってしまったことが、わたしが生きていなければならない戒めとなっています。

姉さんもどうかいつまでも元気でいてください。遠く離れていても、わたしはあなたの妹です。

いつかまた帰ってきてくださいね。わたしと士郎さんで多分姉さんも久しぶりになるかもしれない和食で大判振る舞いしちゃいます。メインは手巻き寿司がいいかな、と今からいろいろ考えてしまっています。

いろいろと脱線したりしたりして、読みにくいところも多々あったと思いますが読んでくれてありがとうございました。

みんな姉さんの帰りを待っています。

かしこ

あなたをいつも尊敬している最愛の妹より

※遠坂、風邪ひくなよ。

↑あ、これ士郎さんのコメントです。目を離している隙に書かれちゃいました。読まれてないといいな……ちょっと恥ずかしいです。

それでは改めて、

かしこ

「今度また、桜を見に行きましょう」

END

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