天蓋《タナトス》の胎動
何も感じなくなったのはいつのことだろう。
たくさんの汚濁を飲み込んで、わたしはわたしを閉じた。
*
朝の目覚めと共に億劫であるという気分が拭えずに、夢の続きを観るようにしてまた布団に潜り込む。それでも日常に流されていく自分が居る。目覚まし時計のけたたましく鳴る音が耳を劈き、のそのそと自分の体温で温まった布団から抜け出す。カーテンから覗く射光だけが陰鬱としたこの家の空気を払拭させる存在だった。
いつまで続くのか、いつ終わるのか。永遠とも思える牢獄は日常に紛れて希薄になり、異常も普通となる。普通だから、わたしは起きて食事をして学校に行かなければならない。日常が異常に変化するときはいつだって何もかもが壊れていった。だから、普通でいなければならない。
起き上がり、兄とお爺様に向かい朝の挨拶をする。目の前に置かれた朝食は豪華に飾り立てられているけれども温かみは全くない。すっかり冷え切ったそれを恐る恐る咀嚼し嚥下した。ただ食べるという行為だけが口中に残る。どんなに食事を拒否しようとも、栄養物を摂取しなければ生きてはいけない。だから食べる。わたしにとって食事とはそれだけの意味しか持たない。
中学に入って、お爺様が毒を盛ることは殆どなくなった。それもそうだろう、それをする必要などなくなったのだから。それと同時に自分の体も生物としての機能を徐々に手放していかざるを得なかった。
もしかしたら自分はもう死んでいるのかもしれない。だからこんなにも周りの空気が重い。
こんなにも世界は暗い。
わたしが関わった出来事に価値はなく、全てが水のようにさらさらと流れていく。経過する時間はゆったりと、けれど泥の中に居るようにわたしは藻掻きながらその水の中を進もうとする。
進もうと、進もうと。
朝ご飯を昼間まで保つ程度食べ終わったと脳が信号を伝えてきた。食事とはそれだけの意味しかないのだから、足元に置かれた鞄を手に取り、逃げるようにしてすぐさま堅牢な門扉から外へと出た。扉を閉め外の空気を肺に吸い込む。泥を閉ざした玄関の扉を暫く眺めているこの時だけは少しの開放感に包まれた。この扉の外に居るのだという認識が、それだけで自分は日向にいるのだという解放的な感情を擡げるのだ。
きっと今日は楽しいことが落ちているという少しだけの期待と希望を胸に抱いて、わたしは歩く。兄は部活動に入っているため、朝は行動を共にすることはなかった。それも安堵の一環だ。独りが楽しいわけではなくとも、最も落ち着くのが独りの時だった。誰か他人と一緒に過す時間すら自分には苦痛だ。
どうしてかは分からない。
どうして、と何度も自分にそれを問いかけた。それでも苦痛であることが変わることはなく、学校生活はただ独りの時間を無為に過す。どうしていいのかも分からないままただそこにいる自分は、一体何のために存在しているというのだろう。
それなのに──どうしてわたしはこんなにも生きたがっているのか。死にたいのに死ねない。死ぬ勇気すらない。けれどもそんな生に対する執着も抵抗も児戯に等しく一日の終わり頃になると支配されるしかない自分を認めてしまう。
ダブルバインド。
暫くすると街の駅構内が見えてきた。電車のアナウンスが始発列車の運行を告げる。始発列車の前に並ぶ大勢の人々は、一人一人何かを考え会話をし、電車へと乗り合わせる。
その中にわたしの席はない。
夢にも見る独りだけの世界。わたしだけが汚濁の世界に身をおき、綺麗なものや外界のもの全てが自分を置いていく。その事実が自分を何年も苛んだが、なくても構わない、と今となっては思えるようになった。何故なら、わたしが乗り合わせた列車はどこにも向かわないのだから。
何処へ向かうこともなくただ進むだけの暴走列車。
それが起きないというのであればわたしは他者を拒絶しよう。
拒絶することだけがきっとわたしに残された唯一の生きる意味なのだと。
そんな妄念とも言うべき想像が確信へと変わっていったのはいつの事だろう。アレがわたしの中を侵した時からだろうか。わたしがその視界に写るものを閉じて全てを放棄した時からだろうか。
目蓋を閉じる。眸の奥には無明の闇。
記憶を懐古した奥にある姉の偶像は、未だ色褪せずそこにあった。
*
生きるべきなんて生物は存在しない。
きっと、死ぬべきであるという生物も。
*
一日が終わる。
この日々がいつまでも続くようにと願いながら、この連続が続かなければいいと祈りながら、わたしはただそこに座っている。夕焼けの朱に照らされた独りきりの教室は暖かさと同時に静寂をも内包していた。この学校でこの教室が一番夕焼けが綺麗に見える場所で、それが最初とても嬉しかったことを憶えている。
同級生との齟齬は入学した当時からあった。
彼女達はわたしと何もかもが違う。
彼女達が持っていないものをわたしは持ってしまっていて、わたしが持ってしまったものを彼女達は持っていない。そのズレは同じ年齢であることを疑わせるほどその関係性は違和感を伴う。彼女達のはしゃぐ姿、戯れる姿、仲間と仲間でいがみ合う姿、涙し喧嘩をし感情を前面に出した姿、それらはきっと醜くとも正しい姿なのだろう。けれど、それら全てをわたしは持ち合わせてはいなかった。噛み合わない歯車がぎちぎちと軋み、新学期から数週間経った今では、お互いに視線も合わさないようになった。
けれど、その方がいい。こんな汚い人間といてはいけない。だからもう──
「間桐さん、今日クラブ活動どれにしようか決めるところなんだけど、一緒に行かないかな」
同級生の一人が、放課後でひとり教室に残っていることを思案してか、心配そうに話しかけてくる。彼女は未だに話しかけてくれる人間のうちの一人だ。その好意自体は嬉しい筈なのに、意外な態度にこちらも正直困惑していた。どう答えていいかわからずただ俯く。彼女は「えーと」と唸り、「ダメ、かな」とはにかむように言った。
「そんなことは、ないんですが……興味ないんです。部活動」
「……そうなの。じゃあしょうがないよね。ごめんね、急に話しかけて」
まともに返答できない自分に忸怩たる思いを禁じえない。部活動に興味がないというのは本当だが、もしかしたら部活動に入ることでこのただ過ぎていく日常から払拭されるかもしれないという希望がないわけでもなかった。
でもダメだ。
きっとそんな希望なんてすぐに潰える、潰えてしまう。だから全てを諦めてきたというのに、今更何を求めるというのだろうか。求めてはいけない、求めてはいけない。そんな資格なんてない、そんな権利なんてない。だから、
──だから、誰もわたしに近付かないでください。
「おーい」と呼ぶ大きな声が廊下から聴こえる。恐らく彼女を呼んでいる友人なのだろう。彼女もまた「はーい」と返事をし「ごめんね」と云いながら踵を返した。
謝らなければならないのはこっちの方だ。なのに、何も云えなかった。悔恨の念が体を駆け巡る。彼女の去ったあとの廊下を暫く見つめていると、廊下に朱く影が伸びていることに気付き、ふと窓の外を振り返った。
空が朱い。
その場に立ち尽くし、空が作り上げた芸術をただ見つめていた。目を細め、光のプリズムを裸眼で直視する。
この校舎から見る夕焼けはどうしてこんなにも綺麗なのだろう。
この街に響き渡っていく、終わりと始まりを告げるチャイム。それは学校の空気をどこか物寂しげに伝えてくるようにも感じる。
雲は空の色に染まり、風に流されていく様が時間の経過を思わせた。窓から真上を見上げると、今にも夜に染まろうと群青の色がすぐそこまで迫ってきている。徐々に顔を下ろし、橙色から黄色と、目の前にある太陽が階調を作り上げていた。
終焉でも黎明でもない、そんな曖昧な境界。
その間にこの景色がある。
きっとこの瞬間がわたしの理想郷なのだ。
だから、こんなにも世界が綺麗に見える。
こんなにも綺麗なものを、わたしはこの景色以外に知らなかった。この景色があること自体そのものに、あるいは、校舎から見える矮小な空間から見上げる空の広さに情動が突き動かされるのだ。もどかしく、諦めきれず、行き場もなくて手を伸ばす。
空を切った手に残ったものはなく、ココにいる自分のカラダだけが取り残される。
悲しいわけじゃない。
憎いわけじゃない。
ただ、どうしてわたしはこうでしか生きられないのだろう、と。
夕焼けが作る世界の影絵が、わたしを浮き彫りにする。
*
今ここにいる自分は現実であり、そしてそれしかない。
それでも、他の現実があるかもしれないと思った。
*
どれくらい夕焼けを眺めていたのだろう。時間は裕に五時を回っていた。部活動に専念する生徒はまだ校舎の中のどこかにいるが、生徒の数は疎らで廊下を反響する音も乏しくしんと静まり返っている。
急いで帰り支度をしようと、机の中の荷物を鞄の中に放り込んで仕舞う。静まり返った教室に本のがさがさと鳴る音だけが響いた。ぱちん、と鞄の止め具が止まったのを確認し、廊下へと足を運ぶ。
──早く家に戻らないと叱られてしまう。
その思考に行き当たって、帰ろうとする脚が止まった。
「莫迦だな、わたし」
行き場なんて最初から何処にもないんだから。何処にもないから帰っても叱る者はなく陵辱されるだけだ。権利は剥奪され自由も破却し、人格などそこになくただ一つの肉の塊になる。かといって行く充てもないのだから、依存するように彼らに縋るしかない。
近い未来に起こる出来事の予測を思考の渦に閉じ込める。左手が右腕を嫌悪するように掻き毟り、右腕には赤い爪痕が残った。いくら掻いても掻いても掻いても、何も拭えない。何も消えはしない。
消えないのはわたしのココロで、拭えないのはわたしのカラダだ。
こんなココロもカラダもいらない。
突如出た衝動に髪を乱しうずくまる。がくがくと震える両手と両足がまだ生きているという実感だけを脳髄に伝える。
……ああ、生きている。
唾棄するように腕から繋がっている手を見遣った。
「──あは」
引きつりのような強張った笑顔が結露した窓に映っていた。
窓に頭と手の平を押し当てると、外気に冷やされた温度が伝わってきた。寒空に冷やされた窓が、自分の手の熱によって水蒸気が結露していく。何気なくその水蒸気を横へ下へと指を持っていくと、霜が融けるようにして結露し指が辿った跡で文様が描かれていった。
──勇気が欲しい。
何かに立ち向かえる確かなものが欲しい。なのにわたしの中はからっぽで、人形のように体をその流れに委ねただ時が経過するのを待つだけがわたしの存在意義だ。そんな意義の人間が一体どこにいるだろう。
わたしは人形だ。
意思も持たない傀儡。
七年前、わたしは遠坂の家から間桐に養子として預けられた。たぶんそこにわたしの姉という存在も居た筈だ。記憶は朧げで確かではないが、深層を探れば暖かな思い出があったことを告げるものがあった。お爺様から告げられる姉の存在は、わたしの一縷の希望として浸透している。桜、遠坂にはおまえの姉が居る──
修練する度に、何度となく、幾度となくそれは口に紡ぎ出される。
ああ、ならわたしは会いたい。この日常の果てが何もなくても、きっと姉が助けてくれるかもしれない。そう思うことで、わたしの心は穏やかになる。中学は義務教育で地区によってどの学校に通うかは予め決められるけれども、高校なら会えると信じている。
それは今でも続いている。
けれど、姉はこんなわたしを認めてくれるのだろうか、と思うとやはり不安になるのだ。たった一つの希望すら定かではない。
──全てを諦めた幼い頃の夜に、大事なものを置いてきてしまったのだから。
ぼすっ、という音が窓の向こう側から振動と共に伝わってきた。窓で冷やされた頬にびりびりと振動していく。その音は何度も窓を揺らし鼓膜に届いた。ぼすっ、ぼすっ、と人が砂場の着地に失敗したような音が断続的に響く。
ふいに、からん、と大きな物音が下方からした。
この場所から見える場所は校庭しかない。階段は自分が見える場所にあり、端の方である為校庭といってもやはりそこは端のほうだった。そんな誰も居ないような場所で物音が聞こえるというのは何事だろうと不思議に思ったのだ。
「え」と声を上げ、思わず窓の外を見下ろした。
少年がいる。
けれどこの学校に学校指定の体操服姿でいるということは、同級生かわたしよりも上級生なのだろう。そう疑ってしまうほど彼の体格は小さく、小学生が潜りこんでいるのではないかとすら思えた。赤銅色の髪の毛が夕焼けによって一層その赤みを増していた。小さな体躯に着慣れない体操服を着、その余った布を風に揺れるままにその土地を駆け抜け、わたしの目の前を横切る。
それにしても、一体何をしているのだろう。夜になるとこの近辺は外気温が途端に冷たくなる。半袖の体操服姿でいつまでも外にいられる温度ではない。
彼は何度も何度も繰り返す。その正体が何かとよくよく覗き込んでみると、棒状のものが見えた。その下に剥き出しの砂場が拡がり、それを跨ごうとしているのだということが窺えた。けれど、何度も棒を倒しては体が倒れ、漸うと起き上がると丁寧に倒れた棒を屹立した棒の引っ掛ける場所に置き直し、再びそれを繰り返していく。
何度も、何度も。
その繰り返しが一体何度続くのだろう。横たえられた棒の高さは彼の身長ほどもあり、いや、事実彼の身長より高く傍目でも無理だということが分かる。それでも彼は諦めない。何度転倒しても、何度肘や膝に擦り傷を作っても、丁寧に棒を掛けなおしては再びそれに立ち向かう。
わたしは呆と立ち尽くし、ただその姿に視界が絡め取られていた。
その先には何もない。絶対に跳べない。そんなこと分かりきっているのに、どうして彼はそんなにも諦めないのか。
分からない。
どうして彼がそんなにも諦めないのか、わたしはどうしてこんなにも彼に見とれているのか──
──また転んだ。
砂地は決して安全な場所ではない。ある程度の高さからバランスが崩れたまま落ちれば大怪我をする事だってある硬い場所だ。マットレスでも敷けばいいのに、と思うが、どうしてこの少年をこんなに気になって見てしまうのだろうか。
全て視界から通り過ぎていくだけの世界が、その瞬間止まった。
ここは校舎の2階。彼の居る砂場までは距離がある。
だというのに見えてしまう。
夕焼けの色を反射し、彼の立ち向かう眸の強さだけが輝き反射していた。赤という強い色彩を浴びて尚、彼は彼の色を喪うことなくただ真直ぐに直線を描くように立ち向かう。
その姿は胸の奥をちりちりと焦がし、わたしは言い知れない焦燥感に駆られていた。
いつまで。
いつまで続けるのか。そんなものやめればいい。どうせ跳べない(報われない)、どうせ諦める。最初から諦めてしまえば後悔することもないし、何も得られなかったとしても悲しまずに済む。
なのに──
水滴が窓にあるサッシの上にぽたりと落ちた。
「あ──れ」
夕焼けの終焉でも黎明でもないあの境界が、少年に浮き出て見えた。
「──あ、ぁあ」
だから、少年はこんなにも綺麗だった。
夕焼けは朱い。そしてたくさんの色を帯びる。けれどもその色彩は瞳孔に映る事で透明性をも帯びるのだ。
"透明な朱"が視界を覆い尽くす。
終焉と黎明の境界は死の胎動であり生の胎動だった。
何かが死に行く瞬間、何かが生まれ行く瞬間を同時に目蓋に焼き付ける。
境界には、綺麗な存在感を以って真直ぐ進む彼がいた。その向こうに確かに、輝く何かがあった。
みているだけでいい。この窓と外の景色こそが、自分と彼のフィルター。剥がしてはならない。汚濁は光を呑み込み喰らい尽くすから。だから、決してあの光に近付いてはいけない。
彼はまだ幼さが抜けないあどけない姿で、何かに抗うように続け、わたしもそれをいつまでもみつめる。それがどんな不思議な光景を作り上げているのかどうかなんて知らない。彼は何度も何度も繰り返す。赤く染め上げられた空がいつか夜になったとしても、いつまでも、いつまでもきっと続けるのだろう。
ああ、と嘆息する。きっとわたしは微笑っている。わらっている。こんなわたしでもわらっている。
牢獄のような循環の中、きっとわたしと彼は何度も何度も繰り返すだろう。
夕焼けが閉じ込めた隔絶した空間の中、どこでもない何かを見つめていた。
彼はその未来《さき》を、わたしは希望《ゆめ》を。
──同じものを見ていた。
*
強くなろうと決めたあの日えがおをみつけた。
人はどこまでも独り。どこまでも孤独。
でも、一人じゃない。
*
「桜、今日いいことでもあったのかよ」
兄は物言いこそ歪んでいるが、それでも唯一家族であると信じられる人間だった。稀に起こる暴力的な行為も、口では謝らないが態度で示していたことは何度かあった。それだけでも、十分に人間的扱いを受けているのだという嬉しさがある。
そんな時罪悪感が胸を掠め、兄のそんな態度にすら臆病に接してしまう自分がいた。
「ええ」とだけ小さく呟くように返すと、「なんだよ」と再び問いかけられる。こんなことを聞いてくるのは今までなかったのかもしれない。それだけわたしの表情が違って見えるのだろうか。
今日、綺麗な宝石を見つけたことをふと思い出した。
その宝石は宝箱の中に閉まっている。なんて綺麗なのだろうと愛おしくその思い出を撫でるたびわたしの中に新しく何かが芽生えてくるようだった。その宝石は外に出さずっと閉まって置きたかった。あの情景は今でもありありと思い浮かべることができる。たとえ何歳でも生きていたとしても、あの時のことは絶対忘れることはないだろうという確信があった。カラダ、細胞、魂の隅々に渡っているのかとすら思うほど、あの記憶は浸透している。
「今日、放課後に……誰かが高跳びをしてました」炊事場でお湯を急須に入れながら答えた。後ろ向きなので表情は分からないだろう。多分、今のわたしは微笑んでいる。
「ああ、それ多分衛宮だな」
表情を戻し、急須に入れた茶を湯飲みに移し兄の前へ持っていくと、それを手に取りながら忌々しげに呟いた。
「……知り合いなんですか」
「名前知ってるんだからそれぐらい当たり前だろう」
驚いた顔を見られないように下を向く。それでも動悸は抑えきれない。
えみや、エミヤ──下の名前はなんていうのだろう、学年は。次から次から疑問が口を吐きそうになるが、変化を兄に悟られてはならないと感じていた。彼は人間の弱みをついて脅すことは平気でする、たとえそれが揶揄うためだとしてもわたしはそれを巧く返すことなどできない。だから弱みになるようなことを自分から明かすことは極力避けたかった。彼が話し始めるのを待とうと自分の湯飲みにもゆっくりと残った湯を入れていった。
「バカだよなあいつ。体育の授業で先生にどうして跳べないの、なんて言われたもんだからあいつ自身背が低いことを気にしてか授業中もずっと棒高跳びを意地張ってしてたんだ。他のヤツは他の課題をしてたのにさ」
だからあんなところで練習をしていたのか、と彼の姿を回想した。
兄と彼は口調から察するに、同級生、それも親しい人間であることが窺えた。だが彼に対する物言いや態度は友人に対するものではなく、兄が一方的に持つ敵対心やライバル心といったもののようだった。だとしても、あの彼の様子は普通ではありえないだろう。まるで映画のワンシーンをそのまま切り取ってきたような透明感。だが、それを綺麗と思った自分もまた普通ではないのだと思った。
「その後ずっと怒ってたみたいで傑作だったよ、あれは。それで放課後に練習してたのか。普段すましてるからコンプレックスをさも気にしないだろうという風に言われるんだよ」想像の中の彼を嘲笑うようにくくっと喉奥で鳴らし、愉悦に浸っている。
やはり、兄の彼に対する態度は決して良いと云えるものではなかった。
それに彼は怒っていたのではないのだと思う。ただ自分の中の理想に屈する自分を見たくない一心で行動したまでのことではないだろうか。而して、兄もまた「魔術師でありたい」という自分の理想を追い求めていた。
そして、それをわたしは今尚奪い続けている。
きっといつか分かってしまうのだと知っていながら、その刑の執行を後伸ばしにし、わたしはまだのさばっている。罪は重なり続けてきっと今よりももっと重くなると、知っている筈なのに。
陵辱されている最中、思い浮かべるのは姉の像と兄さんの姿とそれへの罪悪感だった。姉に会うことが希望の拠り所であり、兄への罪悪感と後ろめたさが嫌悪を押し込め、地獄のような狂気の日々を今まで過ごせてきた全てだった。
──もし兄さんが後継者だとされたなら、兄さんが今度はわたしのような目に遭っていたのかもしれない。
それならば、請け負うのはわたし独りだけで十分だ。
全てを呑み込む。汚くても飲み干していく。嚥下した泥はいつか自分自身を圧迫しずたずたに裂いていく。それでも、わたしにできることは今しなくてはいけない。
「じゃあ、兄さん、おやすみなさい」
「ああ」
「お話聞いてくれて……嬉しかった、ありがとう」わたしは微笑む。
扉を後にするとき、視界の端で兄が驚いた顔をするのを見た。
狂気のような一日一日が過ぎていく。
きっと明日はいいことがあると信じている。きっといつかは闇が晴れると信じている。
そうしてわたしは足を一歩、闇へと投じた。
*
I keep a gleam of hope alive everyday.
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