Cradle of Magdala
彼女の父は、悪を容認し悪を積極的に育む信じるものに反するものを内包した信徒であり、母は悪を神の子であると許す敬虔な信徒であり聖女だった。
生まれた子どもは、率直に言うならば両方の性質を持つ人間だった。
生まれたときから壊れている。それを理解したのはそう遅くない。何故なら、彼女は常に異端の位置にあったからだ。
普通の人間は妬みや恨みを抱きながらも幸福に至り、自己の思い通りになる出来事を見ればそれに感激し、また怒りを抱けば涙も流す。そのようなことが、彼女には生まれつき存在しなかった。楽が存在しないのだから、自らの不遇を憎むこともない。
神父は彼女に、祈ることと日々の労働、生きていくのに必要な食事だけを教え込む。殆どの時間は、神に向かって座し祈るだけで過ごす。祈り、といってもそれは何かを願うとか、何かを考える、とかそんなものは存在しない。祈りという形式を得た“無我”だ。
神父はその祈りを、自分を無にし祈ることに何の意味があるのか、と嫌悪した。自己があるから皆と会話をし、人々に愛を与えることが出来るというのに、と。
人はそう容易く、自我を捨て与えられた責務をこなすことなど出来ない。それを彼女は、彼にそう云われたときから淡々と不満の一つも漏らさずこなしてしまう。知識を与えなかったのは彼に他ならなかったのだが、それ以上に、彼女は彼にとって、理解不能な生物であった。彼は彼女をその時から化け物だ、悪魔の子である、と、神の子であると認めない事をそこに理由付け心の中で理解する。
教養としての知識は与えられないが、人間のやり取りをみているだけでも人間の業と罪、幸福と快楽は理解できる。教義である聖書からも、言葉と活字を吸収するには十分だった。彼の知らない間に、彼女はどんどん何かを理解し言葉を理解し話すようになる。神父はそれを最も恐れた。祈れ、と。ただ祈ってその無為な時間を過ごせばいいと──彼自身そう望んだことではないにしろ、無意識の嫉妬がそう彼に囁く。
彼女にとって、人間同士で交わすやりとりの見立てとなったのが、知識を与えまいと頑なに洗礼を与えなかった神父だ。神父と交わす人々の営みを横で観察し傍観することで言葉を吸収する。神の家である教会の中に鎮座されている長椅子、そこから人々の営みを彼女はいつも垣間見ていた。笑顔と裏に隠された憎悪と妬みを抱え、人々は重く頑丈に出来た扉から外へと出て行く。
いつだったか、彼女は自分の知らない間に傷が増えているのに気付いた。神父に会う人々が出入りする度に傷は増えていく。精神的な苦痛は感じなくとも、肉体的な苦痛は確かにあるのだと実感できたのもその時だった。
苦痛は自らの生を示すものだと、彼女は認識するに至る。
──神父が近付く度に聖痕が増える。
彼女は、近付きながらもそのことに狼狽する彼を、金のくすんだ硬質な瞳でただ見据えていた。その時、この傷が人間の悪意、憎悪、妬み──それらに反応し瑕として顕れるモノだと彼女はただ理解した。彼が近付けば近付くほどに、教会の裡に反響する靴音が響く度に、ざくり、と皮は裂け内の肉すらも刻んでいく。
それは他者の憎しみの顕現だ。神父がそれまで浸隠しにしていた感情が、彼女を切り刻むというカタチによって顕れていく。彼女が着ている法衣は血に塗れ、苦痛に顔を歪ませてもおかしくない出血量だ。神父が近付くたび決壊する箇所は増えていく。
なのに、彼女は苦痛に顔を歪めてすらいなかった。与えられる瑕を自分の身体に塗りこめるようにして、強い金の虹彩を無表情で近付く神父に向ける。その時彼女は、愛と憎悪、それらが同時に強く存在することが可能なのだ──とその人間の業に始めて愛情を感じていた。
神父とて、愛があればその反転である憎悪も存在する。だが、神父自身それを認められず、自身の苦悩を終ぞ理解しようとしたことはなかった。
それも人間の生。
神父の人生に於いて、最も卑下した生物によって悉く価値観を看做された憎悪は並大抵のものではない。その瑕が聖痕であると言い、神父は彼女に対して抱いていた憎悪を誤魔化す。外へ行けば新たな世界が広がるのだからと、自分の役目を一生懸命果たそうとするが、神父が自分に出て行く準備を急がせたのは追い払う為なのだということを彼女は聡明な頭で理解していた。
ああ、と神父は嘆息する。自らに潜んだ憎悪を認めたくないが為の葛藤。それでも、彼女がその痛みに気付き、神父のその感情は間違っていると否定すれば、彼の心はそこで救われていただろう。彼女は、自分を育てた彼に対して、初めて問いかける。
「化け物である私が憎いですか。認められないのでしょう、自分の心が。神に仕え今まで敬虔に務めてきた貴方は私に対して初めて憎悪を抱いた……それは正しいのです。私は、確かに普通の人間から見れば異端ですから。だから貴方の憎悪を受け入れ、私は此処から出て行きましょう。今まで育てて頂き有難うございました。育てられた恩を返すことは、此処から出て行けば返すことも出来なくなっているでしょうが」
最後に、彼の悪意をあるがままに認め、その劣悪さを哀れんだ。
「そして、貴方に受けた愛情と憎悪もこの身に受け、人間というものが本当は深く存在しているのだと知りました。私はこれから私自身どのように生きていくべきなのか探してみようと思います。あなたの憎しみ、確かに受け取りました」
神父は自分が育てた者がどれほど雄大で、本当の意味で化け物だったかをその時初めて認識する。
怖かったのだ。
限界を知らない、何もかもを受け入れる限りのない容積の匣。それが喩え、匣の底が抜けた壊れた感情だとしても──その無限に受け入れられる容積を彼は恐怖し、嫉妬し、憧れた。
神父は彼女の手配先を探す為に、修道院へ通達した。
彼女を受け入れる居場所など有り得ない──そう考えた神父は修道院に、彼女に対する恐怖心で心を占められたまま、今までの出来事と、彼女の体質の事を打ち明けた。彼は無我夢中で、「拾ったからには責任を取らなければいけない。だが、このままだと自分は彼女を死なせてしまうかもしれない」と話す。
神父は半ば諦めていた。だから、このまま彼女という枷を抱えて生きていくしかないのかと神に祈る。そして神父は二つ返事で承諾の意を修道院から貰うと酷く狼狽した。それも一瞬。それが、神父が最も望んだ答えであり、この苦痛を逃れる唯一の方法だった。
神父は、過去キリストを売ったユダのように承諾を喜んで受け入れる。
彼女にとっても彼にとっても、これ以上ない枷の無い自由。
そうして彼女は、今まで閉ざされた扉を初めて自らの手で開いたのだ。
丘の上の教会からの距離を概算しても二、三日はかかる距離に、彼女を受け入れる修道院はあった。そこへ向かうにはまず汽車に乗り、そこから乗り換えて更に足で修道院まで向かわなくてはならないのだが、幸いなことに、その足は修道院から車が手配されている。
目的地へと向かう汽車に身体を揺らされながら、彼女は流れ行く外の気色を飽きることなく眺めた。それまでの生で、こんなにも広大な世界を見たことが無かった、という経験からである。世界は広く、そして美しいと彼女は思う。ふと視線を変えるだけ、ふと上を眺めてみるだけで、こんなにも違う世界に見えてしまう人間の非合理性。
神父と共に暮らした修道院は丘の頂上にあり、そこから見える景色は、視界全面に広がる命の灯火、人間の生の在り方そのものを写し出すイルミネーション。夜になるとそれが一斉に主張しだし、暗闇を一つずつ照らし出していた。彼女はただそれを眺めているだけだ。与えられた命に足掻き苦しみ、それでも尚希望に縋ろうとする人間の生き汚さを傍観者として受け入れる。彼らとの繋がりを肉体の痛みを以てでしか感じられない。だが、その体質を以って人々を救うという可能性があるということを聞いたとき、彼女はその運命に感謝した。
──無為が有為になる自分の生命。
痛みに暖かさを感じる。命の血潮を感じることが出来る。
汽車を出て、迎えの車が彼女を更にシトーという名門の修道院へと送り迎える。慈悲深い誰かが長旅で疲れなかったか、と聞いてもご心配は無用です、と返すだけだった。勘の良い人間ならば、この時点で彼女の異常性に気付き、畏れただろう。彼女は今まで人生で初めて外に出、初めての長旅にも関わらず、そのあるがままを受け入れ、見つめていた。彼女にとってあるがままの世界とは、痛みのない世界。
だが──彼女も一度は疑問を抱き考えたことがある。自分を産んだ、父と母のことである。自分自身のことにはまるで無自覚であるのに、その事を考える度、彼女は一つの希望と、一つの鬱屈した気持ちが湧き出るのを抑えられなかった。
神父と教会にやってくる人々の会話から、恐らく自分のことであろう会話が聞こえてくる時が時折あった。どうやら自分が一歳の赤ん坊の頃、父は遁走し、母は自殺したらしい。母は殺人遺棄致死と云われてはいるが、その実、血痕の残り方や凶器、採取された指紋などから、ほぼ百パーセント自殺と断定されている。しかし、カトリックが街全土を浸透している土地柄、自殺という事実を大っぴらにする事など出来ない。何故なら、母は主に仕える信徒だったからだ。その彼女が主の愛に反し自殺する──これ以上の冒涜などありえない。
それでも──母にはもっと、譲れない大事な何かが存在したのだろうか。
自らの信じるものを捨ててでもなお、縋り、愛する強い“何か”が。
神が此処に事実上存在するのならば、そのような冒涜こそ赦されるだろうと彼女は考える。何故なら、その冒涜は人間への愛に満ちている筈だからだ。その愛を、神は否定しない。ただ、神から与えられた生と同様の価値を持つ大切なモノが母の中に内在しただけの話。母は恐らく、その人物の為だけに全てを与え、そして死んでいった。喩え、それがどんな無価値なものに還ろうと、どんな報われない結果へ陥ろうと、母は愛に遵守したのだ。
その愛の行き着く先、得られないとしても縋るように愛を信じ生きる母のような人間を、彼女は見てみたかった。
次第に車は山奥へと分け入り、修道院の鐘が木々の上方から垣間見えるようになった。何日も経て辿り着いたそこは、人がやっと暮らしていけるほどの畑と水源に囲まれた秘境。その奥に、まるで古代遺跡のようにして屹立する城砦のような建物があった。シトーが持つ、最も厳格であり風格の高い修道院。誰もが見知らぬ顔、同じ法衣に身を包み彼女を迎え入れる。痛みを感じず、ただ兵装として使われるべき人間として。
“被虐霊媒体質”という異能。それだけを教会は欲した。
──人間は、人間の痛みを理解できる。同胞の痛みを感じ慈しむ事が出来る。それは正しい。だがそれも同じ人間として認められたらの話だ。この神の家として神に最も近い名門の修道院に住まう修道士達でさえ、彼女を人間として扱う事は無かった。洗礼も受けていない、ただの孤児が何故この名門に迎え入れられるのか、と誰もが猜疑の念を抱きながらも、修道院の奥へと彼女を迎えた。
彼女はその時から、再び教会という監獄の中だけで生活する日々を過ごすこととなる。
──Ora et labora.
毎日のように繰り返される雑務と責務は、日々の痛みすら感じさせず徒に過ぎていく。
夜の三時に起床し、無我の祈りを繰り返す。といっても、無我であるのは彼女だけで、他の修道士達は確かに世界の安定と平和を脳裡に巡らしながら愛を心に刻み祈っていく。だがそれは、忘我であって無我ではない。
一日にする祈りと労働は何時間もの拘束であり、通常ならば誰もが多かれ少なかれ苦痛を感じるだろう。繰り返される剰りに厳格な日常は、どんな善人でも一度は根を上げるほどだ。そこに娯楽というものはなく、自己の為の労働など存在し得ない。金銭を与ることもなく日々を過ごすことができるのは、祈りと労働が日常と対価だからである。
だから恐らく──普通の人間ならばそこで心を削る。
削ることで感情を半ば放棄し、理解だけを突出させたような歪な思考回路を形成する。このような生活を繰り返すことで得られるモノと喪うモノは確実に存在し、また多くを喪った人間も存在する。剰りに清潔な教会の密閉空間は、歪な感情を生み出し、増幅する装置でもあった。
だというのに、彼女はその日常を分け隔てなく理解した。壊れた人間であるほうが、壊れるものは既に無く健全に日々を送ることができるという矛盾機構がそこにある。
修道院の中でも、稀に彼女の聖痕は悪化する。修道士達の増幅された妬みの感情が、擦れ違っただけでも彼女の肉体を疵付けていくのだ。神聖な場所でこそ忌避される彼女は、忌まわしい感情である憎しみをその身に刻むことで、人間の在り方を象徴した。そういう意味では、彼女は悪魔の存在意義に近い人間だ。聖堂に於いては、醜悪な部分を理解し常に心を一定に保つ必要があるにも関わらず、どんな綺麗な人間でも醜悪な部分は存在するのだとその聖痕を以って見せ付ける。
司教はそのことを案じ、共同の部屋から分離させた一つの密閉された部屋を彼女にあてがう。そこでは誰の目も、誰の声も届かない空間で、窓から差し込む日差しが木漏れ日から微かに覗くだけだ。静謐だが人の住む場所ではない。それでも、彼女はその場所を気に入る。生まれつき日光に弱い肌を持つ為もあってか、寧ろ彼女にとっては適応しやすい環境だった。
擦れ違うたびに向けられる念は忌避の視線であり猛毒の感情だ。周囲の妬みや憎悪を全て理解していながら、彼女はこの修道院を嫌いにはなれなかった。
その理由の一つに、パイプオルガンがある。
聖堂に響くパイプに通された息吹から反響し、また部屋の空間へと更に反響していく音の流れは、まるで“風”のようだと彼女は思った。
パイプのカタチに創られた金属は一定の美を保つように並べられ、神を賛美するように意味のあるカタチに穿ち彫られている。鍵盤の上で踊る天使は装飾美に優れた彫像であり、飾り立てられたパイプはまるで聖なる大神殿のように屹立していた。自然から削り取り創られた人工物が、自然物に近付けようとする佇まい。その矛盾を彼女は愛した。
祈りの合間に弾かれるパイプオルガンが、彼女の心を無我から本物の祈りへと昇華させる。躍動する心は高揚にも似て、それにより彼女の凍りついた感情を少しだけ解かせた。長い祈りと労働だけを繰り返す生活の中、何かを自分でも生み出してみたいという欲求が心の中に出来る。
彼女が何故音に惹かれたのかは誰も判らない。今まで得体の知れない人間であった彼女がパイプオルガンを弾かせてもらいたいと申し出たときの皆の反応は、疑問というよりも驚愕に近いだろう。
何故、彼女が──と。
普段の態度を知っていれば、彼女が自主的に何かをしようという申し出をすることはない、と理解していたからだ。
確かにパイプオルガンを弾く事の出来る者は少なく、できれば修道士達の誰かに学ばせる必要もあったが、弾く為の勉学はあくまで自主的な申し出が必要である。修道士は日々の祈りと労働をこなす事で精一杯で、余暇と睡眠を削ってまで申し出ようとする者は中々居なかった。
そこで彼女が自主的に申し出る。これ幸いと、彼女にパイプオルガンを使用する時間を設けるが、彼女にはこれまで自主的に何かをしようとか、何かを為そうとか、そのようなことを考えたことがない。だから、まず何を弾いていけばよいのかが彼女には判らなかった。彼女は講師となる者を必要とし、それを申し出る。すると今度は容易くその要望は受け入れられ、祈りと労働以外の時間ならば練習してもよいという約束の上、オルガンの鍵盤を弾くことが出来るようになった。
その講師は、育ての親である神父、その周囲に集う人々、教会に属する修道士達などとは全く違う、今まで接したことのないタイプだった。必要最低限のことしか話すことは無かった彼女とは逆に、講師は余計なことをよく話す。当然のことながら、教える側は常に教えられる側に対して口出しをしなければ始まらない。鍵盤に手を置く位置から始まり、足の動かし方、頭でそれを自然に処理するやり方など、彼女に対して教え込むようにして語る。
それが、彼女が繰り返す日課の一つとなった。
またそれら日常とは逆に、彼女にはこの修道院に呼ばれたときから存在する義務があった。主の代行を為す者としての教育が、その日常に折り重なるようにして存在する。
悪魔祓い《エクシスト》としての能力を必要とされて教育されるわけではない。ただ耐えるだけの能力を鍛える為に、その教育はある。霊質を己の肉から実体化させる体質を利用する為には、受け入れる霊質に耐え切るための肉体が必要だった。彼女の精神は生まれつき既に完成しているが、肉体の痛みに耐える術を彼女は持たなかった。痛みを受け入れなければならないにも関わらず、それに耐える。それはゴミ集積所、ヒトの憎しみを受け入れるだけの釜だ。
それは無為になる筈だった。憎しみは憎しみを生み、それら悪意は際限なく膨れ上がる。結果、何も生み出さない。
だが彼女は、“結果”を求めない人間だった。
“結果”とは、生きる人間が先に視る希望だ。
向かう先の希望もなければ、希望が挫折した時に理解せざるを得ない諦観などという思考を持ち併せてはいないのだから、“結果”を志向することもなく、ただその容積に受け入れるだけだ。理解することは簡単だが、人間は“無為”であることに耐えられない。生きる価値はどんな時でも求めるのが、人間という生物の性である。だからこそ、彼女の“無為”そのものが“有為”に変わるその志向を、誰も理解することはなかった。
それでもいいと彼女は思う。
表向きは修道女という、主に祈る人間としてあり、裏向きでは代行者として、主の意志を遂行する。二面性のある生活を彼女は尋常ならざる精神で理解し、ただ過ごす。
まるでそれが当たり前に存在する日常だ、とでも言うように。
師はよく彼女に訊ねた。君は悪魔祓い《エクシスト》をどう思う、と。彼女が「どう、という事が何を指すのか判らないのでお答えできません」と応えると師は手厳しい、と笑うのだった。
悪魔祓いとは精神と精神の戦いである。肉体を以ってしての戦いは肉体の苦痛が主としてある為、魂に疵がつくことはない。しかし、悪魔祓いでは魂が汚される危険性が最も高いのだ。それを生業とし、いくつもの街の異常を解決に導いている師には及ばないだろう、と彼女は思う。
代行者としての能力を持った悪魔祓いですら、魂を侵食されるという危険性は常に付き纏う。大事なのはその恐怖に呑まれない事だ、と師は口癖のように云う。
それにしても──と一瞬言い淀み、口を開く。
──彼女の精神防壁は自分のそれを上回っているのではないか。
感知した霊質に当てられ其れによって負う疵の深さは、訓練の賜物か浅くなりつつあり、凶悪な悪魔を感知したとしても、離れて居ればその体質をある程度抑えることが出来る。それとは関係なく、彼女の精神防壁そのものが高いのではないか、と師は云っているのだ。だが、彼女はそのような訓練を教え込まれたことはない。
「それは私の躰が健全ではないからでしょう。霊媒した時の肉体は、半ば悪魔の霊質が入り込んだ状態と云えますが、それでも本体が入り込むには疵付きすぎている」
それならば、師のように鍛え上げられた肉体の方が彼らが入り込む余地は十分に有るのだ。精神防壁そのものが高いのではなく、単に悪魔が芽吹く苗床とならないだけだろう。
そういう話ではないんだよ、と師がかぶりを振り、ではどういうことでしょう、と彼女が聞き返す。
彼女には世界に対する恐怖がなかった。
誰もが生まれつき持ち併せ、それと戦うことで神に更なる福音を与え賜れる“精神《こころ》の痛み”がないということに、師は初めて気付く。
代行者となるような人間は、その殆どが幼少の頃より過酷な訓練とそれに耐え切り尚鍛え上げるだけの精神力が必要とされる。生まれ付いてのモノも影響するだろう。自らで自らを削り、異端へと変貌する手立ては己の手で行う。それが魔術師と呼ばれる者然り、主の代行を為す者然り。耐えるものが存在するのならば、そこには当然精神の痛みも存在する。彼らはそれに対し、常に自己の心を監視し張り詰める必要があった。
彼女は、今なお過酷な訓練と連日のように続けられる娯楽の一切存在しない労働をこなしている。また、彼女自身の命ですら不遇な扱いを受けているのだ。にも関わらず、過酷な悪魔祓いという仕事を淡々と為す姿に、師は戦慄を覚えた。
悪魔祓いは二度行えない──それはいつからか、悪魔祓いの訓戒となった。
人間は“成った”悪魔に立ち向かうことすら出来ず、初めに人としての理性が崩壊する。悪魔が侵食した街では崩壊した人間が跳梁跋扈し、街を食い荒らし人間を襲い、殺人を行う。地獄絵図などと一言で云うは容易い。街全土が死臭で覆われているのに慣れなければならないのが悪魔祓いという生業だが、それに耐えられない者が二度とそこに立つ事はできないのは、二度目には確実に精神崩壊することが予測できるからだ。
一度地獄を覗き見ることで悪魔の瘴気を浴びれば、自我が崩壊しそうな痛みに耐えながらも理性を手放さずにいなければならない。精神崩壊などすぐ隣にある事象だ。大勢の悪魔祓いが脱落していく中、師はそれに耐えることにやっとの思いで成功する。だというのに、彼女は痛みの無さ故に、悪魔祓いに於ける最も苦難である垣根を既に越えてしまっていた。
その事実は、この生業が天職であるということも示唆しているのだ。
痛みが無いという欠落のある彼女は、人間として神が産み落とした失敗作に他ならない。その彼女を、シオンで厳重に保管・秘匿されていたマグダラの聖骸布は選んだ。マグダラは無限の愛で知られている聖女であり、また娼婦でもある。罪と愛というその相反する事象ゆえに、原理主義では否定される存在。その聖骸布に選ばれたのだから、シトーの人間は内心追い出したがっている者もいるかもしれない。だが彼女の能力は、教会にとって必要不可欠だ。結果、利用され、嫉妬され、罪を背負わされる。
神の失敗作は、周囲の人間を、それでも許し慈しむ。
それは壊れた匣。理想の具現者は、人間の破壊者として進む以外にない。
だからこそ──彼女は希望と可能性を抱ける存在なのではないかと師は思う。
誰もが自らに巣食った罪を抱え生きている。誰にも頼りにされず誰にも必要とされない、誰にも理解されず、誰もが空いた虚無という匣の中へと罪を投げ、放り込んでいく。罪を顕現させる彼女はその都度疵付き、いずれは誰にも知られず死に至るだろう。その放り込まれた罪という名の虚無によって。
「それでもいいのです、それでその人が救われるのならば。──私は寧ろこの体質に感謝しています。私には存在する痛みというものがありませんが、彼らの罪を、痛みを以って感じ取ることが確かにできているのですから」
彼女は、ヒトの善性を象徴する壊れた匣であり、罪を詰め込まれた匣は、ヒトの悪性を如実に写し出す鏡だった。
「彼らにとって、私は意味のない人間であって、私の生き方は意味の無いものに思われているでしょう。ですが、人間とは果たして意味があって生きているものなのでしょうか。いいえ、人間の生に意味も永遠もありません。善も悪も、罪も罰も、真実も偽者も、正義も──本当は、それらは何もない。誰もがそうであり、ただ生き抜いているだけ──私もそういう存在であるだけです。私は、こんな世界を美しいと思います。悪も善も、どちらも内包している存在であるヒトが一体何処に向かうのか……この身体で示して、確かめてみたいのです。たとえその先に何もないとしても──その相手が悪魔であろうと神であろうと、私は対峙し受け入れましょう──」
その虚無こそ、パンドラの匣に残った、ヒトに残されたただ一つの希望。
彼女はいつものように、パイプオルガンの前へ椅子を引き座り、鍵盤を鳴らす。
弾かれるしなやかな指に鍵盤が踊りだす。銀の髪は僅かに揺れ、くすんだ金の眸が細く鍵盤とオルガンの間隙を見据える。彼女は演奏を続けながらも眸を閉じ、反響する音色に暫し耳を傾けた。
風の音が聴こえた。耳に残る残響、鍵盤を新たに踏めば重なるようにして響く音の階層。喩え目に見えなくても、風は確かに存在している。鍵盤を鳴らす毎に発生する一つの息吹は周囲に祈りを攪拌させ、反響する音の風は周囲を包み込む。
彼女は風を謳う。祈るように、全てを受け入れるように。
彼女の名はカレン・オルテンシア。
風を謳い、風に揺れる銀の花。
END
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