E.C.
──絶望し、自己を解体せよ。
*
──ことにもし私が最高の意味での冒険(最高の意味での冒険とは自己自身を凝視することに他ならない)を避けて通った卑怯さのお陰で、あらゆる地上的な利得を獲得することは出来たが──自己自身はこれを喪失したとしたら?
*
鼻腔に酸素を取り込む。丹田に意識を集中しエネルギーを貯蓄する。空《天》から糸が降りる。何者にも見えることは無く、ただ真直。頭頂にそれは届き足許へと循環していく。未来予想図は既に視(み)えていた。
その未来を起こすのは既に蓋然であり必然である。
足許にこちらを浮遊させるかのような振動を感知する。狙う場所までは約数百メートルといったところか。魔力を通した視神経は、その振動の発生源にかの巨人とそれに相対する少女を映している。超然と毅然。それはあまりにも不思議な光景であった。巨人が斧を振るう度空気が震え、それを少女は当たる筈のラインを読み込みかわす。恐らくその状態から反撃に移る機会を狙っているのだろう。彼女が今どのような状況下であるか、何に意識を払っているかが判る。彼女は意識しない。否、意に介さない。こちらが何を狙って何を考えているかなど知る由も無い。
ちらりと彼らの下方を睥睨する。
一人の少女がそこで立ち竦んでいた。異世界に舞い込んでしまったかのような光景に目を奪われ凝視している。確かにあの闘いは美しいと言えるものだろう。あれは無駄など一切許されない死闘だ。
あの場にはセイバー、バーサーカー、遠坂凛、そしてその場所から数百メートル離れた屋根の上には自分が居た。戦い合う者、それを傍観し眺める者、虎視眈々と好機を待つ者、それぞれがこの輝かしい月夜晩の外人墓地にて鎬を削っていた。辺りを見回す。
自分は居ない。
セイバーを助けるためにここにやってくるものと思っていたが、とひとりごちる。だが、セイバーとバーサーカーの剣戟が何回続こうと、彼がやってくる気配はなかった。数百メートル離れた地点でも高架下部分の位置は認識できるため、剣戟の音がする外人墓地と正反対の位置を見返した。
彼が踵を返し自宅方面へと向かっていくのが見える。
そうか、お前はその道を選んだか、とまるで他人事のように考えられた。何故なら彼は他人だ。自分自身でありながら、違う人生を歩んでいこうとする他人。俺であってオレではない。
こんな未来をオレ《自分》は見てこなかった。
人間が把握できる事象から推測すると、自分の人格《記憶》は平行世界の内の一つの世界を辿ってきた記憶に他ならない。そのような世界が如何にして成り立つのか、世界はこの膨大で無限な記憶の連鎖すらも貯蔵することができるのか。いや、貯蔵する必要などないのだろう。ただそれは質量として世界を通り過ぎていくだけだ。
一人の人間が観測することの出来る事実《歴史》は一つしかない。
この光景はその自分の認識を根底から覆した。いや、この身となった時から既にそれは容易に推測できた事実だ。
数年後に至っても、物理学は平行世界を実証することは無い。それは魔術と科学という違いから、世界への干渉の仕方が違うだけなのか。科学も魔術も、世界という基盤が在り、それを顕在化しようと模倣しているに過ぎないのだろう。世界を表現する、とでもいうのか。──もし、この世界が予め決定されているならば、各世界に喚び出される英霊は、決定された世界をただ行き交い眺めているだけなのだろうか。
ふ、と笑みが零れる。そんなことを考えていても自身の決心は揺らぐことは無い。例え未来が決定されていたとしても、それしか自分に選択肢は無い。
どこの誰かも知らない人間を助けようという目的のためにかつての自分は魂を英霊として預けた。そしてその時点から、各時代へその英霊としての魂は召喚されることになる。次々と掃除屋としての役割だけを担わされ、誰かを救うことなどという自分が今まで抱いてきた基礎、礎が砂上の楼閣の様に崩れ去っていく。それもその時代にいる一瞬。また英霊の座に戻され、次の一瞬へと喚び出される。世界の時間軸は折畳まれ、時間というものはなく空間として認識されるのが、英霊という高位存在だ。全ての時間は刹那でも一瞬でもないが、そう表現したほうが現実的だろう。
英霊の座にある魂は記憶を持たないが、その経験や知識は記憶の貯蔵庫へと仕舞われる。人間の肉体でいう、海馬と大脳新皮質の連絡《ライン》が途切れた状態だと例えてもいい。魂はそれを必要時に任意に取り出すことができる。磨耗、そんなものは英霊となったものには無縁だと思える。だが、実際にその記憶は自分が行った、自分が決断した、自分が決定した行動だと、そこに厳然たる事実としてあるではないか。その記憶が、次の一瞬、次の一瞬へと向かう度、積み重ねられていった。
自己嫌悪などという生易しいものではない。これは憎悪だ。自身の魂に対する憎悪。
自分の記憶として固着することはなく、覗き見る時は他者の記憶として覗き込む。
──ああ。
幾等の屍をそこに積み上げたか。
自らのお題目と相反する罪業をいくつ積み重ねたか。
この記憶を閉じたいほどに信じ難く、恐怖した。
だが、衛宮士郎であり続けたいと思う限り記憶を消し去ることは許されない。これまで喪ってきた物への、奪ってきた者への冒涜だからだ。罪悪を積み重ねよ、と記憶は自分に呪詛の様に見せ付ける。
自分の思考はその時から恐らく、まるで時計の秒針が徐々にずれて行くように、時分すらも変えていくように、狂っていった。
かちこち、かちこち。
時間などない座に次第に時間だけが積み重ねられていき、折畳まれていく。
絶望とは「自己」の死に他ならない。その際、属性は反転し堕落する。
望んだものは、誰でもない自分の死に他ならない。
この世界に自分を喚び寄せる原因となったものは、既に彼女に渡してある。
アレだけは、このようなカタチへと変貌したオレが持つわけにはいかない。例え時間軸を捻じ曲げ、同時に二つとは無いものがあることになるとしても、それでも持っているわけにはいかない。彼女にとってとても大事なものであろうものを投げ打って彼女は自分を助け、そしてそのお陰で九死に一生を得た。だから、この命は彼女に報いなければならない命でもあったのだ。
しかしそれを反故にし、オレは己を殺す。
その胸に刃を突き立てる瞬間を想像する。自分が自分を殺すというのは一体どのような気分なのだろうか。こちらにはおそらく相手の痛覚など伝わっては来ないだろう。だがそれと同時に死ぬのは自分自身だ。いや、と首を振る。亡霊が、実体を殺すようなものなのかもしれない。自分自身の亡霊という名の意志が、自分自身を殺す。それは可笑しいほどに矛盾した事実になるだろう。
ふ、とふいに自嘲の笑みが漏れた。この自嘲癖もいい加減板についてきた。自分への自嘲は鏡の様に反発し、攻撃的な側面となって他者へと向けられる。何も無い自分には、自嘲しそれを受け取るだけのものはなく、ただ嫌悪と憎悪が外へとはみ出ていく。それすらも自己嫌悪の一環となっていった。あの少女には少女自身への皮肉であるとしか受け取ることができなかったようだが、それも仕方のないことだろう。彼女はオレを知らないのだから。
こうなってしまったオレ自身と、今の世界を生きる俺自身を。
巨体と少女が舞い、翻り、剣閃によって小気味良い音と共に火花が散る。本当に死闘を演じているのかと思えるほど流麗にただ時間は経過する。その間にも彼らは体力を奪われていく。両者の力量が拮抗していればしているほど、互いに隙を見せることは許されない。セイバーという少女は墓地の墓石の合間を掻い潜り、巨体であるバーサーカーの一撃を読み切る。
流れが見え、未来《さき》が視えた。レールの上を走る電車はその先に向かっていき、次第に終着点へと近付いていく。その終着点とは、破壊されたレールに乗り上げ電車もろとも破壊されるという幻想《未来》。
八節──足踏み、胴作り、弓構え、打起こし、引分け、会、離れ、残心。それらを既に身体に染み付いている反応で心の裡に宿した。残心、その矢は既に自分自身であり、心の中から自分自身が作り上げたものだった。それは矢となり過去と未来を繋ぐ架け橋となる。行為と結果が因果を結び、過去の終点と未来の起点に膨張する空間を作り上げる。
少女は消える、巨体は無傷──結果が現在に浮き出て視える。だが、その結果は願っても無いことだった。その結果から収束する事実は、チェック・メイトしかない。
I am the bone of my sword.というその言葉が現実と幻想を結んでいく。
火花が散るような魔術回路の渦が全身を支配する。身体にある幻想を引き出そうとする拒絶が痛みを発生し意志と拮抗するのはいつものことだ。違う。幻想を否定するのはいつも世界の方だった。自分自身は幻想を生み出すこと自体に違和感など無かったのだから。この身体が異常でしかなかったことは以前から気付いていた。だが、それが何を意味するかも、自分が何者であるかも、既にどうでもよいことだった。
避ける、旋回する、轟音が轟く。
怒涛の追撃、そしてまた追撃。収束することはないのではないかと思われた矢先、空気の温度に変化が起こった。轟音の流れが変化した。一瞬の空気の流れが変わっただけで、拮抗していた両者の力関係は、セイバーを優勢へと導いていた。セイバーの華奢な肉体がバーサーカーの頭上にある隙を捉えたのだ。同時に、バーサーカーの肉体が後方へと後ずさり、足場が揺らいだ。
入った、という凛の声が数百メートル先の木陰から聞こえる。
両者の戦いは未踏の域だ。空間が湾曲するかのような膨大なエネルギーと空気が彼らの元へと集結されていき、そこは既に亜空間によって空間を遮断された外人墓地となっている。その空気が変わった。全体の空気が入れ替わり、いまやエネルギーはセイバーの方へと流れ込んでいる。勝敗は明らかだった。だがそれを防ごうと、そのエネルギー毎引き裂くように斧が振り下ろされる。その一撃は今までで最も俊敏かつ力の篭った一撃だった。
だが、既にバーサーカーの手札は尽きている。セイバーはそれを羽が生えたかのように軽々と避ける。その動きは、彼女はバーサーカーが追撃するその先も読み取り回避したのだということを如実に示していた。バーサーカーはその様子に慄然する。
完璧に決まった。空気の全てが、この外人墓地に流れる魔力の全てがセイバーが一瞬後の未来に起こすであろう勝利を賞讃している。
だが、その未来は起こらない。
彼女を賞讃する未来は流れる魔力の流れがそう錯覚させるだけに過ぎない。既に撃鉄は降りている。あとはその手を捻るだけだ。
世界がどれだけ否定しようとも、この未来は決して止められない。
自己を解体、没入、そして得るものは心の中にある螺旋状に捩れた頭身の剣。心の裡に手を差し込みそれを取り出す、イメージと実像の境界。世界と魂をその心象世界を通してリンクさせる。
──構築。
手の上に何かが乗る感触がした。それに十分な手応えを感じ、その武器を見遣る。かつての実物と心の中で構築された物質と、それは遜色ない出来栄えだった。偽・螺旋剣(カラドボルグ)と名付けられたそれを緩やかに持ち上げ、
そのとき、セイバーがバーサーカーへと追い討ちをかけるように猛攻をかけようとしていた。駆け抜ける。バーサーカーはその猛追に反撃をしようと集中をセイバーへと向ける。雄叫びが轟く。それは常人には認識できないほどのただの一瞬に過ぎない。
この外人墓地にて、空間を支配しているのは一体誰なのか。
エネルギーを味方につけたセイバーか、それとも強靭な肉体と一帯をなぎ払う強大な力でそのエネルギーすら粉砕するほどの力を持つであろうバーサーカーか。
それとも──終焉を既に視ていた者か。
「──偽・螺旋剣《カラドボルグ》」
放たれる矢は空間をも切り裂き両者の拮抗する空間まで届き、そして全てを裂いた。それは息を吐く一瞬ですらなかった。
轟音と、光だけが辺りを包む。
下方に居る凛が「え」とだけ呟く。勝利は明らかにセイバーへと傾いていた筈が、その光が全てを掻き消したことに呆けている。その状況が飲み込めていないのだろう。傍観していた少女は、ただただその光を見つめる。
「──そんな、アーチャー……なの、これをやったのは」
集百メートル先にいる自分をきっと睨むように視線を向けた。彼女には自分の姿は捉えられないだろうが、こちらは捉えることが出来る。そんな彼女に、すまない、とだけ心中で思う。
心に宿るのはただ夜叉だけだった。
だが、彼女と会話を交わす度、自分の中に昔の衛宮士郎が戻ってくることに気付いた。おそらく、英霊となってから歪ながらも笑うことが出来たのは、あれが最初で最後になるだろう。彼女には悪いことをした、などと思うが、理想を反転させ今の行為に後悔などしていない自分にそんなことを思う資格があるのか。
取り戻しては為らない。以前の心こそが理想こそが全ての元凶であり自分にとっての悪なのだから。それを滅せなければならない、消滅《け》さなければならない、存在を抹消しなければならない。理想を貫く──そのようにしか生きることなど、衛宮士郎《俺》には不可能なのだから。今のオレですら、そのように行動することしかできない。それが途轍もない不快感を擡げる。
光の矢が地上に落着し、周囲を覆っていた煙塵が次第に薄れていくと、その中心に居た彼らが姿を現した。
少女は倒れ臥し、瀕死の重傷を負っている。熱によって鎧や皮膚が融けかかり、皮膚に小さな裂傷をいくつも生み出していた。見た目の傷はそうなるが、それよりも重症なのは中身の方だ。多少質量が落ちるとはいえ、宝具を全身に浴びたのだ。彼女の魔力の消耗の激しさは火を見るよりも明らかだ。いずれにせよ、主からの魔力供給がなければ消滅するのは火を見るより明らかであった。例え脅威の自己回復力を以っても、数時間はまともに立ち上がることはできないだろう。寧ろ、止めを刺せなかったことを悔やんだ。
「アーチャー」
苛立たしげに舌打ちをする自分の姿を見られたらしい。彼女の双眸が怒りに震えるように見開いた。何に対して怒っているのだろうか。セイバーもろとも巻き込んだことか、その事態に自分が嗤ったことなのか。だがそのどちらも自分の判断を否定するものには違いなかった。厄介なことだ、と思う。
聖杯戦争に於いて彼女は、敵対するならば衛宮士郎もセイバーとも闘える人間であるはずなのに、いざとなれば不意をつかれたような顔で驚くのだから全く甘い。彼女は魔術師でありながら、どんな時でも人間の情を捨てることの出来ない中途半端な心を併せ持っている。だが、それこそが、彼女が強くあり堕落しない理由なのだと理解できた。
こっちには来るな、と彼女には見えないであろう顔を微笑ませる。元より、聖杯戦争によって得られる聖杯を求めていたのではない。このような事が目的など、彼女は夢にも思わないだろう。それでいい。
足を半歩引き、後方へ飛び移るように身体を傾ける。今の彼女ならば、セイバーの方を優先するだろう。心の贅肉だ、などと言いながら、セイバーに肩を貸すだろう。
彼女はこちらに睨みを利かしながらセイバーの元へと駆け寄っていく。後方に飛び移り目的の場所へと向かう時、バーサーカーの剣気が消え去っていくのを感じた。斧を下げた、ということは当初の目的と違うことに気付いたのだろう。イリヤスフィール、彼女は最初から衛宮士郎だけを狙っていた。セイバーがほぼ手遅れであることを悟り、無邪気な子供の様につまらない、とだけ告げる。巨人と少女は去っていく。後に残るのは瀕死のセイバーと凛だけだった。
視認できる距離を超え、セイバーと凛の姿も捉えられなくなるほどに、今はもう外人墓地から遠ざかっている。屋根と屋根の間隙を跳躍し駆ける。思考回路を把握し、行動範囲を修正する。帰る場所などそこにしかない。そして自分が逃げ帰ってきたという事実に耐え切れず、再び外人墓地を目指すために家から飛び出してくるだろう。そこを狙う。
ぎり、と投影した干将莫耶を握り締め、殺意を宿す。不思議と心中は高揚し、口には笑みすら浮かんでいた。あらゆる工程をシミュレートし決して失敗しないように想像の奴の姿を結いつける。克己心を以ってしても抑え付けられない衝動がそこにあった。
どんな感情なのかも分からない笑みが漏れた事実に自嘲する。これは堕落だ。そもそもこの行為は八つ当たりでしかない。衛宮士郎と自分を他人だと判断しているのだから、自殺ではなく他殺と分類される。だが、あいつもまた自分なのだ。だからこそ生まれる矛盾。
誰かの為に生きてきた自分が、それを成し遂げる前の自分を殺すなど道化に過ぎない。ああ、道化だ。道化でいい。八つ当たりに過ぎなくとも、自分は自分を殺すことをこの上なく欲しているという希みがここに確固としてあるのだ。
自宅が視界に映り、気配が伝わってくるほどに近くまで来ていた。霊体になっていたものを意図的に実体化させた。最も屋敷に近い場所で屋根から飛び降りる。ここは人通り自体が少ないため、人に観られることはない。ゆっくりと、玄関の前までひたひたと歩く。
懐かしい、という感情だろうか。奴が別人だとしても、ここは自分が人生の大半を過ごした家そのものだった。武家屋敷であるため目に見えての風化や劣化は目立ちにくく、尚更「戻ってきた」という感慨を味わされた。今、どんな気分だ衛宮士郎、と自分の中の心に問い掛ける。
懐かしい場所、戻るべき故郷、全てがあったあの場所でその存在を摘み取るといということは。因果なものだ、と呟いた。
平穏だと感じていた日々、空っぽの人生と空虚な自分という人格。絶望していることにすら気付くことはなかった無為な人生。
自分が創り上げた理想の中で足掻き夢を見ては微睡み、それが果たされないという究極的な局面に陥った時初めて自己の空っぽなものに気付く。何もない、自分には何もない。そんなことに英霊《二度と戻れない永遠の循環》となってから初めて気付いた。柵の中で藻掻こうとも決して出ることはなく、その時から全ての世界の色が変化した。
理想があった。誰もを救うという甘いお題目だとしても、そこには僅かな希望を託していた人生があった。だが、そんなモノ《理想》を持ち続けたゆえに永遠の絶望へと追いやられるのだ。
解体。
オレとお前は他人だ、汚い部分はオレが一手に担い、未来を断ち切る。
理想すら果たせない「衛宮士郎」など──いらない。
破壊音がした。
どぶり、と内臓を貫き血液と混ざったような音がし、手許を見遣る。
衛宮士郎はそこにいた。
鋭い突起物で貫かれ、その刃の先はぬるぬるとした赤い液体で彩られていた。その様相はまるで赤い花。刃先は茎のようで、その周りに徐々に広がっていく鮮血はさながら徐々に開いていく赤い蕾のようだった。
無意識のうちに、家から飛び出してきた衛宮士郎を何時の間にか貫いていたらしいとやっと認識した。手許には、殺したという感覚なく殺意もなく、ただその臓腑に刃を突きたてたという感触だけが残った。
苦しいか、衛宮士郎。そう言い、目の前の人間の胸を易々と貫いた干将莫耶を奥へと捻り込ませる。既に彼は自失し、声を出すことが出来ず喉からひゅーひゅーと音を漏らしていた。口の端から唾液がだらりと垂れるのを見た瞬間、目の前にある身体が反射的に前後に跳ね、喉の奥からせりあがった血液を路上にぶちまけた。
ゲイボルグの因果を逆さにして心臓のみを穿つように、うまくはいかないらしい。あの時は心臓が綺麗に抜き取られてしまい、ポンプの役割すら一瞬にして失せてしまった。あれのようには巧くはいかないか、と血溜りが出来始めている地面を眺めながら呟く。
セイバーという基点を失った衛宮士郎はこの聖杯戦争を生き抜くことなど不可能だった。ゆえに、彼女を失った時点でどんな方略を重ねようとも誰かに殺害されるという終焉を迎えるのは必然と言えた。莫迦な奴だ、とひとりごちる。あの場を逃げ出さなければ、もっと違う未来があっただろうに。
彼は再び吐血し、服と地面に暖かいものが張り付く。何が起こったか分からないまま胸を貫かれたのだろう。自分の感覚すらおそらく掴めず、自分を殺した人間が誰かも知らずそのまま死んでいく。
これが、お前《おれ》が積み重ねてきた罪業だ、その痛みだ。
死すら生温い程の絶望と自分が歪んでいく様を観なくて良いのだから、寧ろ自分は感謝されるべきではないか。
人体の体温が急速に低下し、目の前にある身体は死へと向かっていた。心臓が血液を全体に循環させようと一生懸命ポンプを扱く。その度に貫いたままの刃の柄からも血液が迸り、実体化した身体に返り血が付いていた。
世界は狂っている。
骨子は捻じれ狂う。
「そうか、
自分は唐突にソレを理解した。
世界の知識が濁流が奔流のように暴れ出て自分を満たす。ただ詰め込まれていく知識が、この現実はありえないのだと告げていた。
衛宮士郎と自分は同じ存在ではないが、同じ空間に同存在として扱われることは世界の破壊を意味する。エントロピーは急激に収縮し、折畳まれた世界《空間》ごと潰れてしまうだろう。それが、世界が矛盾を否定するという意志を見せる一瞬だった。
何のためにそんな意志が存在するのかは理解し得ない。
理解できよう筈も無かった。
ただ世界はそこにあり、聖杯戦争が行われた冬木という土地の、一角の武家屋敷の手前に居るオレとお前を否定しようと足掻いている。
知識が流入し、霊体である自分の存在が否定される。だがそれは、この霊体であったこの瞬間の自分しか持ち得ない知識なのだろう。英霊となった者に未来はなく思い出もなく、記憶の保管という現象だけがある。
だが、何故あるのか、という疑問に立ち返ってみれば、それこそ不思議ではないか。
ただ与えられたものを受け取り、そのことに自分はただ狼狽し、憤慨し、自分を呪った。
生きていた時の衛宮士郎にしてもそうだ。確かに自分は未来に向けて邁進した。固有結界という得体の知れない能力が、平凡な人間に宿ったただ一つの能力であった。だがその平凡な能力とは果たして「平凡」といえるのだろうか。能力のある者は自分の能力の特異性に気付かない。自分もまた、その一人ではなかったか。
全て──衛宮士郎の未来も過去も全てが決定されていたのか、自分の意志で決定したものが、理解できないものに踊らされていただけだったのか。
繰り返してきたのだ。
「また戻るのか──」
自分は過去《未来》、衛宮士郎の破壊を。
「だとしても、オレは」
さぁ、ここに世界の矛盾がある。
自分は今まさにこの一瞬、呪われた自分と世界に対峙していた。
空間が歪曲し全てを覆う。この時間軸での世界は消失する。だがまた再び繰り返されるだろう。
未来など、おそらく最初から決定していた。こうして未来の形である自分がこうして、衛宮士郎と再び遭い見え対峙することも、予定調和の裡だったのか。
それは流入してきた世界の知識がそう認識させた。この知識は世界の矛盾を解消しようとする断末魔だ。
だが、それは世界が認めなかったというだけのこと。
神は──いや、「 」はサイコロを振る。
目の前の矛盾に、どちらの判決を下すのかをサイコロを振って決めている。
それならば。
自分のために、いつか用意して欲しい。
衛宮士郎という人間を、消滅させる世界を。
*
The loop is carried out. It shows what is the world.
They are doing Eternity Circulation.
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