I`m living in my fairy tale.

わたしは

あなただけのものであなただけをあいしあなたのことだけをかんがえあなたのこうどうをみてあなたにれんぼしあなたをくるおしくあいしあなたをくるわせあなたをこわしあなたのなかにはいってあなたとひとつになる──

ねぇ、せんぱい。ぜんぶたべていいですか。

*

あは、という女の声と共に耳朶を噛まれた感触で意識が覚醒する。視線を移したその前(さき)には、漆黒の衣を纏った朱の狂気を宿した女性、「桜」がいる。何故か俺と桜は事に及んでいるらしい。頬を刷る朱に染めたその表情は苦悶か喜悦かのどちらをも感じさせる。意識が戻った唐突にこんなことになっていたので数秒ほどその行為に没頭していたが、ふと以前の記憶が脳裡を掠めた。

桜は既に姉である遠坂凛を事実上「喰らった」。セイバーと対峙した後、俺は彼女を仕留める事が出来ずにそのまま彼女は桜を救いに──否、遠坂凛を殺すために洞窟の奥へと向かった。セイバーよりも弱っていた俺は彼女の後をまともに追いかけることも出来ず、結局それは間に合わなかった。

──ああ。と嘆息する。それは力無く吐息と混ざり、一瞬にして目の前を暗闇が覆う。「桜、お前」と呟く声も誰に向けて発しているのかも判別がつかない。「どうしてそんな顔をするんですか」と彼女は捨てられた子犬のようにこちらを見据える。俺は笑う。冷笑のように張り付いた笑顔だった。口角はあがるが、目の前の既に《他の何か》になってしまった彼女をただ瞳に映すだけだ。

目の前にいる人物は誰だ。俺は目の前の人物を救いたい一心でここに来た筈ではなかったか。だが笑顔は生まれず、絶望がじわじわと全身を冒して行くのみだった。

ボタンを掛け違ったまま、俺は誰かがこけていることにも気付かず独走してしまったのか。

これまで走ってきた。

確かな手応えという手応えも無く、また策という策も無い。ただ「救いたい」という気持ちが、周りの全てを投げ打ってまで俺を走らせた。救いたかった。なのに、

辿り付いたゴールには底なしの沼しかなかった──

落ちる。

「先輩も食べてあげます。きっとおいしいんだろうなぁ」

おちる。

無と有の混在。光と闇の混交。全ての存在が粒子となって俺の身体を包んだ。決して止まる事は無く奈落をも越えて、それでも落ちていく。かちかちと置換する音を立てて全身の回路が書き換えられる。

止めろ。

闇は母体の中に居るかのように気持ちが良かった。死んでいくことがこれまで生を辿ってきた正常な状態だと言えるだろう。そして終焉へと肉体は向かっていく。だが《置換するそれ》はその死をも蹂躙し存在を冒涜する。

やめろ。

全身に纏わりつく暗黒体のようなそれを振り払おうと抵抗する。底なしの沼から這い出ようと必死になって手を上に翳し僥倖を見つけようとする。どこにも光は無い。深淵がただただ拡がっているだけでこの身はその間にも侵食されていく。

桜は取り戻せない。変わっていたとしても、彼女を受け入れられなかったのは俺なのだから。唯一彼女の全てを受け入れられる遠坂凛という女性を、自らの判断の甘さで失った。最後の最後で、それもたった一度の判断で、決して戻ることの出来ない汚濁に全てが呑み込まれてしまった。

諦めたくなど無い。全てが絶望的な状況下だったとしても、それを乗り越えてここまで来た。ここで俺が負けたら彼女にどう言い訳できるというのか。その思考が腕に力を宿し抵抗を試みる。

腕に伸びた、歪な朱く光る模様が思考を凍らせた。

「せ、んぱい──」

彼女の声でふと我に還る。

その追想は"自分は目の前の彼女に負けたのだ"という事実だけを示していた。彼女を救おうとして何と言う体たらくか、と反芻した事実に自嘲する。

だが何故、自分はこうして意識と肉体を保てているのか。

興奮しているのか魔力を吸い上げられている状態なのかは分からないが、桜の頬は赤く紅潮し口唇を無造作にこちらに突きつけてくる。理性を忘れたかのような一心不乱の口付けに暫し逡巡するが、こちらが静かに舌を入れて返すと、ん、とくぐもった声が彼女の喉奥から響いた。

見渡せば、ここですら全てが混沌とした暗闇が覆っている。時間の概念などここにはないだろう、と無意識のうちにそう感じていた。暗澹たる感情が思考を擡げていく。

負けた。

全てを投げ打って全てを捨てて、新しい何かを得ようとして、負けた。それもまた、一人の人間の意識のひとつの人生に過ぎないのかもしれない。他の世界に居る俺は違う工程を辿って違う結論、違う結果に辿り付くだろう。

何故だか、そのような考えがふと浮かんだ。以前ならばそんなことを思いつきもしなかっただろうに。平行世界という通常ならば在りえない魔法を、自分は当たり前のように受け止め考えていた。

彼女との口付けは鉄錆びた血液の味がした。かつてなら性行為の前戯でも興奮に足るものだった筈が、今や全く何も感じない。感覚をどこかへと半分置いてきてしまったのか。

「不思議ですか。先輩が生きているの」

「ああ」

そう頷いて出た声は自分のものとは思えないほど無機質なものだった。不思議に思いふと口へと指を持っていく。指が視界に映った。腕の先まで赤い紋様が浮かんでいるのが分かる。それは令呪の様に不可逆、だが神経を冒す毒そのものだった。それは全身にも及び、朱い光彩を放っている。指を一本一本握り締め確かめる。自分の身体だ。だからこそその事実が信じ難かった。これが俺か。

自分が以前の自分で無くなった感覚が確かにある。だがその事実を受け止めている自分が居た。汚濁による悪意が自分を責め立て暗闇の牢獄へと誘うようなあの不快感と嫌悪感、それがすっかり消失している。

「先輩はもう死んでるんです、本当は。私と一緒」自嘲気味に彼女はそう言って笑う。

「でも、先輩は私のものだから……いえ、私のものじゃないから先輩を手に入れたくて先輩の意識だけ私のいるところ──ここに、引き戻したんです。だから先輩はこうしてここにいる」

目を細め微笑むように彼女は変わり果てた自分を見る。

そうか、とだけ呟き返事をした。既に何もかも失われた状況とは裏腹に、自分の身体は通常ならば在りえない魔力で漲っていた。既に空っぽになってしまった自分の身体に、縫ぐるみに綿を詰めるようにして魔力が蓄積していく。

あれほど苦痛であったものが、どうして。そう言うと、桜は「ねぇ、先輩、先輩は、もう、私のもの──なんですから」と、座っている俺の身体をゆっくりと押し倒しながら囁いた。だから、もうそんなことは考えなくていいんですよ、と桜は微笑む。

目の前の桜も桜だ。けれど、かつての彼女とは決定的に違うと俺は知っている。なのに俺の身体は、逆に彼女を下に敷き彼女の体を求めた。先輩、先輩と熱病に浮かされたように際限なく呼び続けている。彼女は未だに俺をそう呼称する。

違う。俺は違う。

「先輩」などどこにもいない。ここに居るのはかつてそうだった者の残骸に過ぎない。彼女はその残骸となってしまったものを集めて俺と仕立てただけだ。

だから、こんなにも俺には何も無い。汚濁を受け止めても何とも感じない。衛宮士郎は半分死んだ。だが桜を愛しているということだけが、俺が認識できる確かな事実だった。それ以外はまるで自分のモノではないと感じるほど記憶は壊れ、欠片として分散している。手繰り寄せればまだ欠片をつなぎとめることは出来るだろうが、物理法則としてそれは既に壊れてしまったもので、元の衛宮士郎というまだ壊れていなかった硝子は戻ってはこない。

ほとんどをあの汚濁に喰い尽される所を、理性の残っていた彼女であった部分が俺の一部分を取り出した。だが、桜の望む「先輩」はもういない。それを彼女は認めているのだろうが、それでも衛宮士郎を求めずにはいられない。なんという皮肉、なんという喜劇。

こうして桜の悲しみを慰めることしか俺には出来なかった。こんな身体で、彼女はいくつの苦しみを植え付けられたのだろう。俺だったものの呼称を呼ぶ桜は、まるで置いてけぼりにされた子供の様に泣きじゃくる。

せんぱい、と。

抱きしめれば抱きしめるほど、彼女のか細い体は俺を貪欲に求め、俺のものを愛撫する。

「さ、くら──」

今ほど、何も感じないのが恐ろしいと思ったことはないだろう。苦痛、安堵、悲哀、喜悦、全ての感情、全ての苦痛が伝わらない。こんな自身を恐怖する感情はあるというのに。彼女の白く変色した肩まである髪の毛を、ない感覚を紛らわすように梳く。

「そうだ……先輩、私だけじゃないんですよ、ここにいるの」

そう言って彼女は視線を地面に移す。その黒い汚濁はヘドロが湧き出るような音を立て動き出した。彼女はこれを自在に操っているようで、愉しげに笑いながらそれを見つめる。

どくん、と鼓動が跳ね上がった気がした。見覚えがある。その姿、その顔、その瞳。

「姉さん──なかなか陥落しなかったんですよ。いつまでも無駄な抵抗をし続けて、可愛かった。先輩も姉さんと一緒に遊びましょう」

逆流する。血液か、思考か。魂の属性が反転しほとんどを汚濁に呑み込まれ、尚かつての衛宮士郎は半分生きて、そして、俺はその目の前にいる「人間」を覚えていた。

「は……──ぁっ」

容赦なく地面ではない地面に汚濁を叩き込む。口から容赦なく黒い物質がぞろりと這い出てくる。恐らく生理的な嘔吐という現象が発生しているだけだ。だが吐き出されたそれは胃液でもなくここの全てに拡がる汚濁そのものだった。

こんな状態でよく我ながら意識を保てているな、と自嘲する。

目の前に現れた人間は「少女」だった。

意志を宿していた瞳は硬質な硝子となってただ光を反射するのみ、あの強かった少女の意志が陥落した証拠だった。それでも口からはぼそぼそとしっかりとしない発音で何かを訴えているようだった。

「先輩、姉さんを助けないんですか? 助けてって言ってますよ」

もう、助からないのにかわいいなぁ、と桜の声が酷く遠くから聴こえた。

「──あぁ、そうだな」

自分の口を吐いた言葉は冷徹で、しかしその言葉を反芻することは無い。

狂っている。俺自身も、桜も、遠坂も。

遠坂、と俺は彼女に問い掛けた。彼女の心は既に崩壊しかけている。あの汚濁を受け入れることが出来ず死という終焉を迎えようとする肉体。自分の様に容易く呑み込まれることはないほど、彼女の心は強かった。抵抗に抵抗を重ねそれでも剥き出しにされた魂は彼女の心をやすりにかけた。

彼女も、俺も、もう戻れない。

喘ぐ彼女をただ冷静に見つめる。慈悲は無い。怒りも憎しみも無い。

ただ一つのことを俺は思う。

終わりにしなければならない、と。

「ごめんな、俺の所為で──こんなことになって」

セイバーも、あのいつでも強くあった彼女ですら、強大な聖杯の力を得た汚濁には勝てなかった。絶望と混沌だけがここにはある。

もう戻れない。だから。

投影、開始(トレース・オン)と声を発し、その呪文が自身の魔力を具現化させた。内奥の心象風景は鋼の剣。その手に持つは投影で練り上げた、鈍い鉛色の光を反射する短剣。

一歩一歩、彼女に近付く。歩いてるのが俺自身だと確かめるように、俺は歩く。

かつての俺を思い出す。記憶のピースは散らばり、その記憶が自分であると認識できなくともその部分を散見すること自体は出来た。

これまで、どれほどの道を辿ってきただろう。

ただ望んだのは「幸せ」だった。

最初は「正義の味方」という決して叶わない願いだと知りながらも追い求めた願いがあった。だが、それを俺は裏切り、桜と共に生きる「幸せ」を願った。

誰もが、そう望んでいた。

桜も、自分の幸せを手に入れたいとあれほど望んでいたのに。

そのために抗い、だがそれでも突きつけられる凄惨な事実に心を壊した。

俺もまた、心が壊れているに違いない。

混沌とした場にそぐわないほど思考は明瞭としていた。だが今ここで冷静な判断を下せたとしても、以前の衛宮士郎の判断では決してありえない。魔術回路がたとえかつての衛宮士郎のものだとしても、失った心は戻らない。そして彼女も。

なんて酷い世界だ、と自嘲気味に俺は笑おうとした。

笑え。

笑え。

──ああ、俺はないているのか。

ああ、と嘆息する。感覚すら既に無く、過去の数時間の記憶だけとただ彼女を求め思考するだけが今の自分だった。

10年前、衛宮士郎は火事で家族も自分も何もかも全てを喪った。新しい世界を求めた。こんな世界があっていいのか、誰もが幸せで居なければならない、誰もにその権利があるのにその権利自体も世界は無慈悲に刈り取っていく。俺はそれを許すことができなかった。俺自身が生き残っているのに、何も出来ない何も変えられない世界なんてあっていいのか、と。それ以上に生き残りのうのうと一人だけ人並みの幸せを掴んでいる自身も許せなかった。だから、力を望んだ。

衛宮切嗣は魔術師であったため、それと同等の能力を欲し自身を刻苦に置いた。苦しまなければならない。苦しんで苦しんでこの苦しい世界を味わう。朝も夜も訓練に明け暮れ、魔術の行使に身体的に限界が来ても、それでも諦めることは無かった。その苦しみに一度も「辞めたい」などと思わなかったのは、苦しいことが俺にとって逆に喜びになったからだった。俺が苦しんで、誰かが一人でも幸せになってくれるのなればそれは僥倖だ。そんな気持ちが心の端にあった。

「バカだな──お前」

そんな言葉が口を吐いた。バカだ、と二度呟く。誰も責めてなどいないのに、誰も呪ってなど居ないのに、衛宮士郎という人間は自分自身を責め自分自身を呪った。理屈ではそんなことなど意味がないと知っていた筈だろうに、それでも衛宮士郎を突き動かすものがあった。

誰かの幸福を願い、たった一人の大切な人の幸せを願い、その為に生きた。

かつん、と響くことの無い足音が耳に届く。

誰かが幸せであるように。

誰もが幸せであるように。

残骸になっても、俺はまだそれだけを願うだけの心が一欠けら残っている。

これを振り下ろし、そして俺自身も共に還ろう。俺たちは死ぬべき場所に還らなければならない。

「一緒に休もう、遠坂」

*

唄が聴こえる。

櫻の花弁が舞い散る風景を幻視した。咲き誇ったそれは街路樹の脇にその幹を置き、上を見上げればただただ蒼い澄み切った空があった。

声が聴こえる。

空気は軽く、談笑しあう声は春風に乗って届いた。櫻の馨りは誘うように奥へ、奥へと続いていた。街路樹の桜はまるで絨毯の様に桃色の鮮やかさを発している。それをさくっと踏みしめながら先へと走っていく。身体は軽い。

笑い声が聞こえる。

彼らは笑い合い、共にその幸せを噛み締める。これまで犠牲になった人間を弔うように、哀しく、けれど幸せに。四人はその満開の櫻の仲にいた。

いくつ喪ったものがあっただろう。

手に入れたものはいくつあっただろう。

俺は笑う。

よかった、と心からそう思う。願わくば、その幸せが続くようにと。

花弁はふわりと鼻腔に微かな櫻の馨りを残し、目の前を掠めていった。

*

ふたりをたべた。

るんるん、るんるん。

せんぱい、ねぇさん、いつまでもいっしょ。いつでもいっしょ。こころがみたされていくんです。うれしい。だれもわたしをひていしないしだれもみにくいわたしをひていしないこのせかいにいられてしあわせです、せんぱい、ねぇさん。

だいすき。

──だいすき。

END

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