重力の虹

唐突に一つの雫が頭へと停まった。

西の方角から黒く発達した雨雲がこちらへと向かってきていた。その雨雲の切れ端が届き、これから起こる降雨の前座であるかのようにぽつんと届いたのだ。そうなってくるとあの雨雲は雷雨を伴うような激しいものなのだろうという予測はついた。だが通り雨なのか、それとも台風であるのかの判別がつかない。携帯を持ち合わせていなかったためどのような状況にあるのかも確かめるわけにはいかなかった。一刻を争う。洗濯物は干したままであったし、手に提げている買い物袋の中身も冷蔵庫で早く保管しなければならない。アイスクリームがこの中で眠っているのだ。空を仰ぎ見ると、電柱に止まっていた鴉も急激な気圧の低下の変化を感じ取ったのか、集団で森の方角へと向かっている。

雨の匂いが鼻につく。微妙な変化ではあるが、天気であるときの状態が激しい降雨へと成り代わる際、気圧の変化と共に空気の匂いも変わる。潮の馨りが何十分の一に希釈されて元が何であったかわからなくなったかのような、そんな匂いだ。

ゆっくりと周囲の景色を眺めながら自転車をついて歩いていたが、この様子では家に辿り付く前に大降りになるだろう。自転車にまたがりペダルに拇指丘を乗せ楽な体制で勢い良く前へ押し出す。大腿四頭筋がエネルギーを燃焼し消費していく。籠の中には夕飯で調理する為の卵も乗っている。ペダルをぐんと回し旧道でもあるこの道を通るたび、籠の中身がかたかたと揺れた。この際多少の傷がつくことは妥協するべきだ。

いよいよ諦め時が来た。黒い雨雲が頭上に到達するのを待つまでもなく土砂降りが襲ってきたのだ。一瞬にして全身がぐっしょりと濡れる。だがそれよりも全身に矢の様に叩き込まれる雨が肌に痛い。籠の中にある買い物袋もビニール製とはいえ、こうも雨が激しいようでは中身のほうが心配になってくる。今回手製の買い物袋を持参することを度忘れしていたのが功を奏した。布製であったため、今よりもずっと被害は大きかったことだろう。

空気が雨の匂いで充満している。熱を持っていたアスファルトが一気に熱を奪われその熱が空気へと放熱される。熱さと湿気を伴った空気に呼吸が苦しくなった。こうなれば通り雨であることを祈るのみだ。何処かの店で雨宿りをしようと決意する。この旧道では車が通らず近道などに利用する人間は多いが、店を利用する人間は少なかったらしい。道路脇に建てられた店らしき看板は潮によって風化し錆び付いていた。勿論、かつて店だった建物で物を売る人間はいない。ずっとそのまま壊される事も無く、ただ歴史を積み重ねていくだけだ。

坂道を転がるようにスピードを落とすことなく降りていく。曲がり角に差し掛かったとき丁度良さそうな屋根が視界に映った。徐々に自転車を減速させ、緑色をした庇の下へと傾れ込ませる。籠の中から荷物を取り出そうとするが、こちらが焦っている為かうまく荷物を引き抜けない。漸く引き抜いた頃には中身も十分水気を帯びていた。ビニールで包まれた製品は大方無事だろうが、乾燥物は後で乾かさないといけない。自転車を物陰に駐輪し、庇の下へ身体を潜り込ませた。

「──っあ──、酷い目に遭った……」

全身が水気でハンデをつけた修行僧のように重い。歩く度に靴の中に溜まった水がたぷたぷと音を立て、その感触に気持ち悪さを感じた。ひとまず持参していたハンカチで顔の水気を拭う。その時、聞き覚えのある声と同時に、顔を拭っていたハンカチの合間からその姿を捉えた。

「先輩」

その声は桜だった。彼女もまた出掛けていた最中に驟雨に遭い、この庇の下で時間を稼ごうとしここに赴いたということだった。いろんな偶然があるものだ、とふと笑みが零れた。

「桜、風邪ひくからこのハンカチで取り敢えず拭いておいたほうがいいぞ」

「あ、ありがとうございます。──というかですね、先輩は買い物の途中みたいですけど、一体どうしてここに……?」

「うーん、偶然だと思う。帰り道はこの道路を通ったほうが近道だし、まさかここで雨が降ってくるとは思いも寄らなかったから」

桜は苦笑し、私もそうです、と首を縦に振る。

彼女は遠坂の家に寄って帰る途中だったようだ。その後近所の商店街で買い物をしていて時間を食い、豪雨に見舞われたということだった。

雨がこの屋根の下と外界を滝のヴェールで覆ってしまったかのようだ。ざぁ、と耳を劈く音が全身に響き、瞼を閉じればそのまま瞑想することも出来そうだった。隣を見ると桜は寒そうに両腕を手で擦っている。背中に腕を回し、出来るだけ桜の体温を奪うまいと背中をゆっくりと擦った。誰もここを通り過ぎることは無いからいいものの、二人きりでこうしていることがなんだか照れくさく感じ、つい、と緑色の庇を見上げた。そこには「わらべ屋」と白い文字で書かれてある。風化によって多少ペンキが掠れているものの読み取ることは出来た。

「あ、そうか」

幼少の頃、屋敷から数分のこの場所まで稀に赴いて、駄菓子を買っていたことを思い出す。ここの店主は恰幅の良いおばあさんだった。子供が遊びに来ると、いらっしゃい、ととても嬉しそうな顔で出迎えてくれた。その顔を見るのが嬉しくて、それからは稀にだが少しのお金で駄菓子を買っていったものだ。だがその目的は、店主であるおばあさんと話すことだった。10円程度の駄菓子を数個、それだけしか購入することは無かったが、おばあさんは全くそんなことを気にかけることはなく話につきあってくれていた。いや、相手であるおばあさんもまた、自分と話したかったのかもしれない。また来てね、という期待と憂いの篭った言葉が耳について離れない。

小さな自分の幻が扉を開け、嬉しそうに部屋の中へと吸い込まれていく。そこにはガムや飴玉、梅干を加工したもの、射的やくじ引き、保存食品になりそうな加工食品など、様々な色に彩られた駄菓子の数々が部屋を覆っていた。自分はそこでうわぁと感嘆しながら部屋全体に拡がった駄菓子やオモチャを眺めた。その姿を見ながらおばあさんはにこにこと頬をおたふくのように膨らまし笑う。

そんな風景が脳裡に浮かび、現実との齟齬を認識した時どうしようもない年月の経過を感じさせた。今はその荷物は取り払われ、おばあさんの姿も無く、ただこの店があった場所だけが存在を主張している。

「──で、ですね、ここは結構思い出深い場所だったりするんですよ」

「──え」

思い出を遡行していたためか、桜の言葉が良く聞き取れなかったようだ。

「まさか桜、桜もここに来たことあるのか」

「はい、それはもう」

*

遠坂と間桐という魔術師の血筋の関係から、間桐の家に桜は引き取られ、そこで苦痛以上の苦痛を味わった。数年間──口に出してもその重みは今でも自分の頭を擡げる。この過去を癒すなどというおこがましいことは出来ないが、せめて彼女の支えになってやりたかった。

聖杯戦争が終了してからは、桜は見違えるほど元気になった。だが、時に過去自分がしてきたことの事実を思い返しては、夜中に起床し、人知れず泣き吐瀉物を流した。このままでは桜は弱ってしまうと判断し、彼女がずっと避けていた間桐慎二の墓を二人で訪れる決心をした。彼女は最初その話を聞くと驚愕し拒否したが、こちらがどうしても、と言うと渋面としたまま承知してくれた。取り敢えず体裁は整ったわけだから、すぐにでも慎二の墓を訪れることにした。彼女も最初は抵抗したが、こちらが先を急ぐとついてきてくれた。

桜は恐らく、自分が兄を殺したという事実も、そしてまたその事実がたくさんの人間を殺害したという避け得ようの無い証拠であることに恐怖を感じていたのだろう。町の人間はかつてのアンリ・マユによって身体ごと飲み込まれ、現実的には行方不明という形でニュースに報道された。故に桜自身、殺人という罪を全身で受け止めるには時間がかかるようで、そのニュースを見ている間も暗鬱とした面持ちではあるがその事実を聞き流している感があった。それからだった。彼女が夜中に起きては涙を流し、洗面所に赴いてはそこで夕飯で食べたものを全て吐き出していることを知ったのは。

慎二の墓がある場所までは山道を通らなければならず、射すような日差しの中を脇の木陰をかいくぐりながら漸う辿り付く。彼女は帰ろうなどという弱音を一度も吐かなかった。遍路を思わせる黙々とした歩きは、これから厳しい修行に向かう修行僧の寡黙さを思わせた。頂上に辿り着くと、視界が拓け坂の上から石墓とその丘の向こう側に広がる海が一望できた。

間桐の魔術師である家系は全て失ったが、それに連なる血筋の人間は僅かだが親戚として存在していることを遠坂は突き止め、慎二が死亡した事実を述べた。彼の死亡診断名は事故死として扱われた。これもまた、遠坂の計らいによる。魔術に関しての死亡は、魔術教会を通じて死亡の書類は処理されるのだ。その親戚がこの間桐という家系の墓にその身を安置したのだった。贓硯は行方不明として伝えられた。何故なら彼の死体は、未だあの大空洞の下で眠っているのだから。

慎二の墓に手を合わせる。桜も恐る恐る手を合わせた。墓の上から水を掛け、予め持参していた花を添える。一斉に沸き立つような油蝉の鳴き声が、夏の始まりを告げていた。

両の手を墓の前で合わせたままありがとう、と桜は呟いた。何度も呟く。それはここへ連れて来た自分への感謝の念なのか、それとも墓の中で眠っている慎二への懺悔なのか。ごめんなさい、と彼女は言わない。感謝と謝罪はコインの表裏のように表裏一体だ。正か負かどちらの感情を持つかで、言葉として出てくるのがどちらかを決定付ける。桜は謝罪する回数の方が明らかに多い。それは自分にも言える。他者への罪の念、自身への悔恨や自責の念がそうさせるのだ。だが彼女はただ、ありがとう、と言う。

背負う。多くの罪を背負って生きていく。

慎二の死と墓。生きている桜と自分。その対比と境界がここにあった。生者は死者と向き合い、生を認識する。ただここに存在《い》るという事実。

背中を震わせ、今にも土砂降りの雨が降りそうな顔で涙を抑え込んでいる。両肩を抱き、彼女の背中を擦ると、それまで我慢していたものが溢れ出た様に自分の胸へ顔を寄せ泣き叫んだ。

蝉の鳴き声と、嗚咽と。

徐々に高くなっていく日差しと、じりじりと焼けていく地面と。

幻と、蜃気楼。

*

「ここは、私も一度だけですが、来たことがあるんですよ」

桜は埃がこびりついた扉の硝子をつつ、と撫でながら言った。

「お爺さまにずーっと閉じ込められていたんですけど、ある日突然何の説明も無く私を出してくれたことがあるんです。多分、それがお爺さまの優しい側面がでた一度きりのことだったのかもしれません」

「じゃあ、その時にここに来たのか。たしかにあそこからでもここまではそれほど遠くもないし、歩いて来れる距離だからな」

贓硯が本当に優しい側面を見せ、彼女に外を歩かせたのかどうかまでは、今となっては分からない。彼は姦計なしには彼女を連れ出すようなことはしなかっただろう。だからこれは桜の思い違いに過ぎない。彼のしたことを自分は一生忘れることは無いだろうし許すことも出来ないが、彼が唯一桜に優しくあったという事実がひとつでもあるのならばそれでもいいと思う。

つくつくぼうしの鳴き声が夏の終わりを告げていた。時の流れを感じさせるこの駄菓子屋も、自分の中に連綿と続く記憶も、風化し徐々に色褪せていく。それでも、それがあった事実を忘れることは無く、かつて感じた感情も決して忘れることはないだろう。

雨の匂いが徐々に弱まってくるのを感じた。太陽が僅かながら顔を覗かせ、空気中に含まれた水蒸気を熱し、屈折した光が虹を作った。太陽が西に傾いているため、やや東側、ここからみえる虹は新都と山の向こう側に架けられている。大きく湾曲した透明な光が冬木の土地を覆っていた。

「せ、先輩、虹です、虹」

「ああ、綺麗だな」

「虹の下って通れるのかなぁ……、通ってみたいといつも思っているんです」

「桜、いつもそんなこと考えてるのか?」

「そんなわけないじゃないですか。虹が見えたとき、ですよ。視界に映るのは光が屈折してそう見えているだけで、本当に虹というものが架かっているわけではないのは知ってます。でも、通ってみたいと思いませんか」

桜はそう言ってこちらを向き微笑んだ。桜はもしかしたらあの虹に願いを架けたのかもしれない。何の願いだろうか。

「そうだな、何も起きないと思うけど、ああいう大きな虹が見えたときはそんな気分になるかもしれないな」

「そうです」

雨が止んだな、と言い手に持っていた荷物を籠の中へ再び詰める。自転車は予想通り錆び止めでもしなければ錆び付いてしまいそうなほど隈なく濡れていた。サドルの部分も腰を落ち着けて坐れそうにないほどだ。仕方が無いので家まで自転車をついて歩くことにする。幸いなことに家までは数分の距離であるし、溶けかかったアイスの様子は推して測るべし、だ。とほほ、という擬音がついてもいいだろう。

「じゃあ、帰るか、桜」

「──はい」

きぃ、と音を立て自転車を押し進めていく。誰もいなくなった店。色褪せた看板。人の通ることの無い道路。それらを背に桜と帰途に着く。光の屈折による虹は時間の経過と共に徐々に消え失せていた。勿体無いです、と桜は言う。秋を象徴する蝉が、雨が止んだとばかりに再び活発に活動を開始する。静寂だった辺りの様子は秋の色に染められ、笑顔は満ち、影は光に変わった。桜の笑顔も、この雨が通り過ぎた後の虹のように、いつまでも綺麗であってほしい、と思う。

運命にずっと自分の人生を操られ続けてきた「桜」は、その因果から脱出した。これからは、収束していた未来は膨張し、別の因果を作り上げる。これから彼女は、自分の手で未来を創っていくだろう。

蝉の鳴き声と、微笑みと。

徐々に低くなっていく日差しと、じりじりと焼けていく地面と。

幻と、重力の虹。

END

Reference URI

  • トラックバックのURIhttp://glas-gather.org/mt/mt-tb.cgi/167です。

Breadcrumbs List