Letztes Seizoen

彼をマツ

「そうですね、ひとつ昔話をしましょうか」

「えっ、なんですなんです、先生」

今は夕暮れ時。全てが赤く染まった時間帯だ。先生はホースをその細い腕でひょいと摘み、鉢に植えられたひとつの苗に水遣りをしていた。それが済むと、木でできたリクライニングチェアをゆっくりと揺らし一仕事を終えたと満足した顔でこちらを見た。

「ふふ、本当にちょっとだけ昔の話ですよ。でも、あなたから考えたら本当にながいながい昔のことなのかもしれませんね」

「うーん、よく言ってることがわからないんですけど」

そう言うと先生は首を少しだけ傾げ、目蓋を数秒閉じると何かを思いついた子供のように微笑んだ。

「時間に換算したらきっとあなたが──そうね、3人いるくらいの時間が流れたと考えてください。でも、私にとってそれはとっても短い時間だったんですよ」

「へぇー……そんなもんでしょうか」

「そんなものですよ」

「そんな昔に何があったんです」

「夕日がきれいですね」

がくっ、と肩が落ちる。会話がちょっと途切れ途切れだが、これもいつものことだ。自分の祖母も、思いだすことがあれば唐突にその記憶の中に潜っていくかのように今までの会話をオールカットして何事もなかったかのように話を進めるのだから。まぁ、それは祖母の性格ということも言えるかもしれないのだが。

「へ、あ……そうですね、綺麗です」

先生、と問うと、先生は「ふぅ」と一息を吐き、リクライニングチェアに一層腰を深くかけた。

「あの日もこんな夕焼けだった。でも季節は寒くて凍えそうな冬でした。群青色の空が覆っていて今にも夜になりそうで、でもその空を沈んでいく真っ赤な太陽がその周囲を朱色に染めていて……それが本当に綺麗で。嫌な事があって気分が優れないときにそんなものが視界に入ったものだから、ふと空を窓から見上げて……そんな雰囲気にね、みとれてしまったんです」

茜色に染まった町の景観は、言葉では言い尽くせないほど綺麗だった。

「そうですね、言われてみれば、なんだか全部がこの空に溶けてしまいそうな……」

「ふふ、詩人みたいなことを言うのですね」

「先生だって、そんな感じで言ってたじゃないですか」

「そう、幻想みたいな雰囲気。今でもそのことはありありと思い出せます」

「とっても大事な思い出なんでしょうね」

「ええ、ほんとに大事な思い出。その夕焼けの中には、一人の少年が走り高跳びをしていました。もう誰もいないグラウンドでずっとずっと誰もその努力を見ていないのに──結果的には私が見てたことになるのだけれど、ずっと飛べない走り高跳びをしていたんです」

「いったい何のために」

「理由なんかなかったんですよ。ただこの線を越えたい、超えることが何か自分の中に一本の綺麗な線を張れる、なんていうようなそんな曖昧できっと他人にとってはどうしようもなくわけのわからない理由だと思いますよ」

「じゃあ、成績も結果も、なーんにも得られないんですか。ただ自分だけがその結果を知っていればそれでいいというような──うん、でもそれはそれでいいかもしれないですけれども」

うん、それは人間として綺麗だ。でもどことなく怖い印象もある。だって、何も得られないのに実行し続けることのできる人間が果たして人類で何人いることか。人間は、等価交換とまでは行かなくとも鞭と飴、需要と供給が巧く噛み合っていなければその内破綻を来たす。だから実行し続けることは同時にそれが一方のみへと傾くことを意味し、周囲をも巻き込んで全てが破綻する。その一つの強い意思“イデオロギー”がために。

だから、綺麗と思いつつも、それを目指してはいけないのだ。ましてや実行など不可能に近い。実行する本人の気が狂うほうが先なのだ。

「そう、あなたの言う通りです。彼はきっと自分だけがその心を秘めていました。自分の中で全てを背負って処理しようとしたその人はね、ずっと正義の味方を目指していたんです」

先生の口から思いもよらない言葉が出てきたものだから、おおっと驚いた。

「正義の味方って、あの正義の味方ですかっ」

「どの正義の味方があるというのですか」

「テレビに出てくるマントをつけた正義の味方とか、ほら、いろいろいるじゃないですか」

「うーん、そういうのではなくて、心の問題でしょうか。あの人は本当に全ての人を救いたいと考えていた。そんな心の在り様が、多分、正義の味方というんだと思います。誰もきっと、結果なんて認めていないんだと思うのだけれど、彼は違った。全てを救うということをその身で体現しようという理想を持っていた。──それが、正義の味方」

そんな人間がいるのかとも思った。

けれども、そんな心を持つのは普通の人間ではありえないんじゃないだろうか。だって本当にありえない。そんな心を抱えたまま日常生活をこなせるのかとか。いや、こなせるのかもしれない。異常者はいつだって日常の中に溶け込んで異常性すら分からないのだ。ましてや、魔術師だって通常ならば異常の範疇に入る。それでも日常生活を難なくこなすのが魔術師の本分であり仕事だ。まぁ、異端ではあって異常な人間ばかりではないが。

でも、それでも先生は何故、そんな少年の心のありようまで知っているのだろうか。

「それって、偶然出会った人、なんですよね。なんでそんなに先生はその人のこと知ってるんです」

そんな事を聞くと、先生は極上の笑みでふわりと微笑んだ。

「彼を愛しているから」

目が点になる。先生は今何を言ったのか。

「え、それって──ずっと……待ってるということなんですか……」

そうとしか結論は出ない。

いつの日もいつでも、遠い目で空を眺めていた先生。桜が咲く季節になると決まって桜の咲いた街路樹を透かした先に向かって微笑んでいた先生。

それを──一体、何年待っているというのか。あまりの歳月の多さに愕然とする。

「彼はとても綺麗でした。魂が穢れなく澄んでいるから、その在り様、存在感全てがきれい。でもね、そんな彼でも、身近な人間のことにはなかなか奥手だった。ずっと気付いてもらえなくて──ううん、それは私が臆病だったからなんだけれども、それでもそれ以上に彼は前しか見据えていなかった。周りも見ることはなく、ただ一点と自分を結ぶ線をただ見据えて、その細い綱渡り“正義の味方”という人生を渡ろうとする、とても危なっかしくて私では真似できないことを実行しようとしていたんです」

「つまり馬鹿正直、鈍感、朴念仁、と三拍子揃っていたわけですね」

うんうん、と頷く。先生はその言葉にふふ、と微笑んだ。

「そうね、そんな愛しい部分を、彼が彼であった部分を、私は……壊してしまったんです」

「────」

夕日に照らされた赤く染まった微笑み。月日は経ち、その年月の重さが、顔の皺と共に刻まれていることを如実に示していた。彼女の微笑みにふと居た堪れなくなって、夕日の方向を見遣る。

「それがとても辛かった。こんな自分がいなければ彼はこのまま突き包む進むことが出来たはずなのに、と思いました。でもね、その考えが更に彼を壊していった」

何も言えない。一言一言がまるでその時間をどしどしと加重してくるような重さを持っている。その内容は重すぎて何も返答することが出来なかった。

「私の罪の大きさは、彼の道にとって大きな障害でしかないのに、彼はその障害を風呂敷に包んで背負って歩いていく。そんな壊れていく彼に何も出来ない自分が嫌でした。それどころか、それを更に加速させてしまった。そして、私はこうして──」

待って、いるんです。と搾り出すような声を出して俯いた。

先生の罪の大きさというものがどんなものかは知らない。けれども、それは自分などでは想像のつかないきっと言葉には出せないものなのだろうと悟った。……だから聞かない。

「その人を、ずっと待ってるんですか」

「ええ、この罪が消えることはないけれど、私が生きていることで贖えるのなら──いつまでも」

呟くように先生は言う。

罪、というものが、まだ若い自分には分からない。ただ、それが自分を苛み苦しんでいるというのならば、先生はもう赦されてもいいんじゃないだろうか。

でも──何に。

待っているということは、その赦す相手が不在であるということなのだろう。

何て──

何て先生の人生はこんなにも苦難に満ちているのだろう。想像なんてつく筈ない。いや、そんな簡単に想像なんてしてはいけないんだ。やい、少年、先生をここまで苦しめずにさっさと出て来い! なんて言ってやりたくなる。でもこれほどの時間の経過が、少年はもういないのだと示唆している。

それでも先生は待ち続ける。

そして、先生はずっとこの思いを一人でずっと抱えていたのだ。

「先生、もっとその人の話聞かせてください。これからずっとここに来ます」

誰もがその少年のことを忘れていく。先生だけがいつまでも憶えている──なんて、そんなことは嫌なのだ。綺麗な微笑を浮かべる先生が愛した少年。誰かが覚えていかなければならない、そうでなければいけない気がすると魔術師である自分の勘が告げている。

「──ありがとう」

誰もが、その微笑みは聖母だと言うのだろう。

苦難や苦渋も全て呑み込んで受け止めて、それでも尚世界を包み込んでいるような表情で佇む、かのマリア像のように。

「はい、わたし、楽しみにしています」

*

「先生、手伝いに来ましたー。また、話を聞かせてください」

櫻のユメ

「ねぇ、先生。先生にとって魔術師ってどんなものでしょう」

その丘には満開の櫻が見渡す限り連なっていた。舗道に沿うように整然と並べ立てられたものでも、咲き誇る時こそ人工的なものを微塵も感じさせない。リクライニングチェアに優雅に腰掛けている先生は、それを穏やかな眼差しで長い時間見つめていた。

先生の花好きは今に始まったことではないのだが、風のざわめく音と花弁が舞い散る様はどんな花嫌いでも見惚れてしまうのではないか。そんな光景が、この教会の上から見渡せるのだ。

「魔術師……ですか。どうしてそんな疑問を持ったのですか」

「えーと、ですね。魔術師って先生みたいな人ばかりじゃあないんですよ。研究に余念がなくて、人体とか倫理とか平気で垣根を越えてしまう人間も多い。先生は魔術師なのに、どうして魔術に興味を持たず、花を育てるという時間だけを過すのですか」

「どうして?」先生は小首を傾げ、こちらに向き直った。

魔術を極めようとしたら、いつか“彼”に届くのではないかと思ったのだ。しかし先生にそんなことを為そうという気配も見られない。だって、魔術師にとって“蘇生”、“永遠”という目標は大昔からの悲願なのだから、魔術師である先生がそういう考えに至ってもおかしくもなんともない。寧ろ、それを目指している魔術師のほうが大半だ。

だから、疑問に思う。先生は“何を待っている”のだろうと。

「先生は何か、少年と約束してることってあるんですか」

先生はぱちくりと目を瞠って驚いている様子だった。当てずっぽうで云ってみたのだが、どうやら当たっていたらしい。

「あ、いえ。待っている理由としては何か覆せない約束っていうのがあるんだろうか、と」

「ああ」そうですね、と納得したように頷き、微笑んだ。「約束……とかそんな大層なものではないんです。ただ叶うならばそんなことがあってもいいんじゃないか、って思って彼に云ったことがあるんです」

「どんなことですか」

海外旅行に行きたいとか、はたまた来世まで結ばれるようにとか、うーん、他に何かあるだろうか。ずっと一緒にいて、とか。

「花見に行きたいって云ったんです」

先生の言葉は、忖度していた自分の考えを根底から覆した。なんだって? 花見?

花見というと、日本人が櫻が咲いた春先にその木の下で宴会を催すという行事のことを云っているのだろう。

──まさか。

先生が心から望んだのは、そんなことなのか。

でも、叶うことはなかった。

だってそれはとうの昔に叶っていなければおかしい。待っていても、きっと少年は先生を迎えになんて来てくれない。

「先生、単刀直入に言います。先生は少年を探しに行こうとは、思わないのですか」

「そうね、本当はただ“待つ”なんておかしいですよね」

「おかしい、ってことはないです。ただ、少年がもし生きているのなら、此処にもう戻ってもおかしくないくらいの年月が経っているんですよ。あの時の少年がまだ戻らないのだったら、先生から探しに行ってもいいんじゃないかな、と思ったんです」

先生は穏やかに桜並木を見つめる。目蓋を一回閉じ、また開きまた閉じる。

「そうね……、私もそう思います。それでも、探しに行ってるときにもし彼が此処に帰ってきてしまったら、どうしますか? その時私が此処を離れてしまったら、彼はどうしたらいいか分からなくなってしまうかもしれない。私は、できれば彼の安心する場所であり続けたいのです」

「でも──」

多分、彼は生きていないのだろうと思う。先生もそれに気付いているだろうに、いつまでも待っている。何のために。

先生は日増しに衰弱していっている。彼を待って数十年が過ぎているのだ。寿命は先生を刻々と蝕んでいる。

「待つ、ということは苦しいものなのかもしれません。そして、二度と叶わなくなるかもしれません。私はきっと、もうすぐいなくなるかもしれません。……そのときは、誰が彼を迎えることができるのでしょうか。それだけが、唯一の心残りです」

*

あの日から数日たって、先生の容態が急変する。祖母も倫敦から急いで日本に帰国し、なんとか間に合った。

祖母は先生とは違い、生粋の魔術師だ。魔術師の界隈では知らぬ者はいないとまで云われている超有名人であり、自分はその孫にあたる。また自分の母──彼女から見れば娘だが──は彼女の後を受け継ぎ、根源を目指す魔術師。だというのに、自分は祖母のように魔術を極めようとか、母のように魔術師として生きようとか、そんなことは思えなかった。

何故なら、自分はこの目の前にいる先生から教わろうと決めたからだ。

祖母は勿論怒った。「魔術師がどれだけ苦労して子どもに魔術を受け継がせるか、あんた分かってるの」と。

母は既に自分を勘当状態に置いて、自分は倫敦で理想を目指しているから、自分を育ててくれたのはほとんど祖母だ。寧ろ、お婆ちゃんっ子だと言い換えてもいい。彼女が何に怒っているかもよく理解できる。魔術師とは、その世代、次の世代に呪いをかけるようにして継がせる永遠の円環なのだと。それが根源へ到達する為の一つのステップなのだと。

それでも──自分はそれを放棄した。

「いいわ、あんたがやりたいようにやってみなさい。それで何も得られないようならもう一度ここに戻ってきなさい。魔術師がどういうものなのかビシバシと鍛えて上げるから」

祖母はまだまだ元気が有り余るようで、孫に血も涙もない発言をする。まぁ、そういう人なんだとわかってはいるのだけれど。そして、それが彼女の優しさなどだと分かっているから、どこまでも憎めないのだ。

そして、先生はもうすぐで逝ってしまう。果たして自分は何かを得ることができているのだろうか。

だが、血圧は下がり続けもって数日だと、医師は告げた。

病院に入院することを先生は拒んだ。病院ではなく花が見える場所でいたいと──言うことはなかったが──きっと最後まで彼を待ち続けたいのだろう。静謐な空間に囲まれた和風建築。以前は衛宮家が所有していた土地だったらしい。だが、ここの持ち主はもう事実上いないことになっている。土地の相続者が行方不明扱いという届けは世間の都合上出さないわけにはいかなかったようで、その当時は難儀したらしい。そして何故かこの土地は近隣の一角に建っているど偉い人たちが買い取ってしまった。祖母もどういうわけかその人たちと縁があるようで、今までこの家が取り壊されることのないよう長年見守ってきたのだという。

祖母も先生も、昔から此処を丁寧に手入れしていたのだろう。築何十年という年月が経っているとは思わせず荘厳さを思わせる。緑色をした、新しく編まれたらしい畳の部屋に一人分の布団が敷かれ、先生はそこで横になり、天井を見上げている。

祖母は「ったく、なんで私があいつの尻拭いをしなきゃなんないんだか」とこの家の屋根を見上げ、目尻に涙を浮かべているのを誤魔化していた。

「先生、お加減はどうですか」

「ええ、大丈夫です」

祖母が先生の体を拭きながら、「あんたが先に弱るなんて」と苦笑交じりに云った。

部屋を隔てている襖を開くと、花びらが突然入り込んできた。

「これ、櫻の花びらですね。どこから来てるんだろう」

ここの家には櫻の木は立ってはおらず、どこかから風に乗ってやってきたのだろうと推測した。

「ん、外の並木街道じゃないかしら。そこになら櫻の木があるから」畳の上で正座している祖母は、先生を見守りながらそう云っていた。

「ん、なに」

先生は訥々と、口を動かすのも億劫そうに何かを云っている。

「え──これ、から?」祖母は驚愕していたが、「……うん、そうね。それがいいかもしれない」と優しげに頷いた。

「ごめんね、みんな。これから外に出たいって、この子云ってる」

祖母の口から出たのは、信じ難いものだった。

先生はもう躰させ動かすのも難しいのに、どうしてそんなことを云うんだろう。と思ったとき、思い当たるものがあった。確か先生はなにを望んでいたのか──それを何処かで聞いたことがある。そう、あれは数日前のことだ。花見をしたい、という約束を少年としたと云っていたのではないか。

先生は車椅子に乗るのすら苦痛に違いない。顔を歪め呼吸は荒く、今にも倒れそうだ。祖母が抱きかかえようとしたが、先生は拒絶し、地に足をつけ、踏ん張って車椅子に乗る。命の灯火が消えかかる。

先生が乗った後、乗った足を整え、腰を落ち着かせた。ふぅ、と冷や汗を拭き取る。ゆっくりと車椅子の車輪は廻っていく。

満開だった。高台から見下ろす並木も一興だったが、見上げる櫻の木はまた全く違った様相を呈している。

目の前の光景は、桃色一色に染まった景色。三次元であるのに、三次元を感じさせない一色の空間を作り上げている。きっと美しさというのはこういうものなのかもしれないと思った。雪も、雨も、青々と茂る木々も、林立するビル群も、全てを覆うかのような力を見せ付ける。だが、そこに自分達は優しさを見つける。圧倒的な恐怖感の中に、懐かしく柔らかく生まれたての赤ん坊を見つけようとするかのように。

「ありがとう」

車椅子を押している自分に先生はそう云った。

祖母は少し離れたところで煙草にライターで火を付け、なんとか気持ちを落ち着かせようとしているようだった。

「いいえ、他にしてほしいことはありませんか」

「そうですね……では、もう少し進んでみましょうか」

「はい」

先生の望むように、車椅子を前へ静かに押していく。微かな音を立てながら進んでいく。

「あなたは、どうして私に魔術を教わろうと思ったのですか」

と、先生は唐突に口を開いた。

そうだ。どうして自分はそう思ったのだろうか。魔術師として習うのならば、百人が百人共、祖母に師事しようとするだろう。十人が十人共、母に師事しようとするだろう。確かに自分は遠坂の跡取りだが、それでも先生が生きている限りは彼女に師事していたいという想いがあった。

「わたしは、先生が綺麗だと想ったからです」

素直な気持ちだった。だというのに先生は目を丸くしてきょとんとしている。高齢になるというのに濁らないあどけない瞳がこちらを見上げていた。

「きれい──……?」

そう言うと、先生はとても可笑しそうに笑った。

「ど、どうしたんです? 先生」

「いえ──なんでもありません。ねぇ、わたしは……綺麗に生きていたでしょうか」

「ええ」

「わたしは、罪を償えたでしょうか」

「ええ」

綺麗だと思う。何故なら、彼女の“生き方”そのものは、誰よりも綺麗だったから。誰かを純粋に想う気持ち。それは時には翳りを産むこともある。それでも、自分はその純粋な気持ちに触れていたいと、そう想ったからこそ師事したのだと想った。

夢──先生は夢を見ている。少年に出会う日を、その一瞬を。

「私、償いというのがどういうものなのか分かりませんでした。償いなんてしたこともなかった。だって、私の人生ってどこまでも情けなくって、失敗ばかりで。償い方なんてきっと、人間誰しも教わることのないものなのかもしれません。誰も、自分の侵した罪をどう償っていいか分からなくて、でも進むしかなくて。きっと……時間だけが、それを癒してくれるものなのかもしれません」

祖母も押し黙ったまま先生の言葉を聴いていた。

「それでも私は癒されたくなんかなかった。彼に会うまで、絶対に償わなければならないものがありました。たくさんのものを私はたくさんのヒトから奪っていったから……私は」

ねぇ、と祖母が優しく先生に声をかけた。

「私もあなたにいろいろと迷惑をかけたわね。私は思うの。人間の罪ってたくさんあるんだなぁって。だってそうでしょ。あなたに罪があるなら、放っておいた私も、そして私の父も罪があるんだから。それでもってそんな父にした魔術師という枷だって悪いわけだし。でも──私はあなたから、たくさん、たくさん素晴らしいものを貰ったわ。妹を好きでいるってこと、そして、あなたを見守るってこと。そんな些細なことでも、私はあなたに救われていたんだから」

先生の目尻から水が零れ落ちる。泣きじゃくるような、子どもみたいな純粋さで先生は泣く、とても嬉しそうに泣いていた。

そうだ、きっとわたしも、

「……先生に、救われていたんです」

桜の花はどこまでもわたし達を多い尽くし、涙さえも撫でていく。

魔術師とは何だろうと、ずっと考えていた。何故なら自分は遠坂で生まれた人間で、魔術を知る人間なのだとずっと思っていたから。そしてそれを目指し邁進するものなのだと。

でも先生は全く違う視点を持っていた。

時間という人間に割り当てられた貴重で、そしてそれっきりのものを、先生はきっと大事にして過ごしていた。普通の人間にはそんなことはできない。

何故なら、人間は現在ではなく、未来を生きる存在だから。

未来を見て、現在を視る事はないのだ。そしていつしか自らの罪を忘れていく。

誰かを蘇らせたい、魂を限界まで生き残らせたい。人間の抱いている概念であり、永遠のテーマである。だが、先生はそんな願いを抱いている人間の対極にいた。

先生が望んだものはきっとそんなものじゃない。

きっと馬鹿馬鹿しいほどに、

忘れがちで当たり前にある、

“普通”のことだったんだから──。

そして、その道はとても綺麗なものだと思ったのだ。

先生の罪を自分が知ることはない。それでもきっと、先生が先生でいる限り赦されるものなのだと信じている。

「──私はそれを、償えたのでしょうか……ねぇ、先輩」

祖母が号泣した。喉から咽び泣くようにして、涙は枯渇することを知らない。

「ああ──」

先生が視線を街路樹の向こうに向けていた。何かあるのか、と視線を向ける。祖母もその視線を追い、街道が形成した櫻並木の先を瞠目した。

そこには少年が立っていた。少し短く刈りこんだちょっと癖のある赤毛、幼そうな顔に柔和な笑みを浮かべている。

「先生、あれ誰でしょう」

指差した先を先生も見ている。祖母は少年の方を向き、躰を震わせている。「まさか、嘘」という声が祖母の口から漏れた。

少年が近付いて来る。

桜並木のトンネルを潜りながら、ゆっくりと、花びらの舞い散る速度で。

「先生、あれ」

これは夢なんだろうか。だって、先生が年を取ったのだから、もし迎えに来ても彼も年をとっていなければおかしい。おじいさんになってる筈なのに、彼はまるで先生が昔の話をするような姿で、昔のままに立っていた。

彼の歩みが止まる。先生が座っている車椅子のすぐ手前で立ち止まった。

「ちょっと、遅れちゃってごめんな」

頭を照れ隠しのように頭を掻き、先生に手を伸ばした。

「いいえ、ちっとも遅くありません。おばあちゃんになっちゃいましたけど、先輩が来てくれたから赦しちゃいます」

ふふっと先生は皺だらけになっても綺麗な微笑を浮かべ少年に云った。

「……待ったか?」

「はい、たくさん待ちました」

彼は優しく微笑んでいた。自分は車椅子の背中を持ち、ただその光景を見守っているだけだった。彼は先生の手を取った。動かないと思った先生の躰は魔法にでもかかったかのように軽々と起き上がり、彼の前に立つ。

先生、といいかけた言葉が出ない。自分は、幻でも見ているのだろうか。だって彼が今になって帰るわけがないのだ。何十年も待ち続けて、最後に顕れた彼は、一体何者なのか。祖母の方を見ても、なにも声が出せないようだった。

それは何の「魔法」なのか。

幻なんてものじゃない。だってはっきりと、実像として結ばれた彼の姿は生きている姿そのものにしか見えない。

誰がかけた魔法かなんて知らない。奇跡なんて知らない。

本当は何かのカラクリがあって、奇跡に見せているだけなのかもしれない。

それでも奇跡はあるんだろうか。

いつまでも少年を待ち続けた先生は、やっと望んだ人に出会えた。

それで十分なのかもしれない。

「先輩、わたしずっと云ってなかった事があるんです」

一呼吸。

さらさらと櫻だけが音の階層を為し、耳に届く。

風の音が迫る。

並木道を下るようにして、彼のいる向こうから突風のような春風が向かってくる。彼と立っている先生の姿がぶれた気がした。

春になれば花が咲く。

風が舞い、花弁は踊る。

────だいすき。

向かい風となり、櫻が視界を遮る中、目を凝らした。

風は何もかもを運んで行くようにして、彼も、そして先生も──連れて行った。

安らかな眠りに包まれ、一片の櫻の花弁は先生の上に降り積もっていく。

「さ、くら……?」

祖母が呆然とした顔で先生を見遣った。そして泣き崩れる音。

自分はといえば、先生が今どこにいるのだろうとばかり考えていた。その先──先生の見る夢が、できれば贖罪ではなく創り上げていくものであるとわたしは祈る。

咲き誇った櫻は、三次元が四次元だと錯覚させるような感覚を呼び起こす。

櫻の並木道はどこまでも、果てしなく続いていっているのかもしれない。

その続いているトンネルの先に、二人の姿はあった。

────それは、櫻が見せた幻《夢》。

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