New Oath
この二週間の中で夜の街を徘徊するということは、いつ戦闘になってもおかしくないのだろう。だが、そんなことは決してないのだとイリヤは確信していた。既にサーヴァントは4体失している。聖杯戦争が始まって早数日で決着が着こうとしているのだ。そんな異常事態は在り得ないのだと、聖杯である自分の身を思い、今まで起こってきた事態の事実に思考が沈潜した。
事実、サーヴァントは4体消えているという感触があるにも関わらず、魂は自分の中へと回帰していない。そんなことは在り得ないのだ。誰かが、いや、何かがそれらの魂を貪りでもしない限りは。
聖杯の器は二つある。
それが何であるかを知っている、それが誰であるかを知っている──
「──ふぅ」
昼の街の顔と打って変わった顔を、夜の街は見せていた。街灯から僅かに灯る光と、しんと静まり返った遊歩道に自分の足音だけがカツンと響く。暗闇を更に暗くするように、月を覆い隠す雨雲がやってきていた。傘も持っていなければ、合羽も持っていない。こんな夜中に出歩いたとあの二人に知れれば一方からは小言を、一方からは呟きを聞かされるに違いない。だが、その前に一抹の期待を抱えて、遊歩道をステップを踏みながら駆けて行く。
彼はいるだろうか、と玩具屋にあるお気に入りのヌイグルミを眺めに行くような気持ちでふふ、と微笑む。はやる気持ちを抑え切れなかった。いなければまた来ればいい。あの角を曲がれば公園がある。
その場所まで来て判ってしまった。
手に取るようにわかる、彼を取り巻く空気と彼の気持ち。硝子の結晶は今にも壊れそうに罅が割れ、寒そうに凍え、泣くような声で咆哮していた。何が正しくて何が間違っているのかという、人間として備わっているはずの機能が彼を揺さぶっている。それは、彼を今まで生かしてきた信念が大きく揺らいでいる証拠だった。
きっと彼は知ってしまった、いや、気付いてしまったのだろう。自分の生きる意味の答えを、今ここで決着を付けなければならないと、そうしなければどうしようもないと。
キリツグのような生き方を、彼自らの贖罪なのか信念なのか、はたまた言霊による呪いなのか、彼は今まで当たり前のように行使してきた。けれどそれは自分を大切にするという気持ちも、大切な人を守るという気持ちも蔑ろにしてしまう。そのキリツグのような生き方は憎むべき心の在り様だった。だが同時に哀しくも思う。
どうして、大切な人を守らずにいられるのかと。
そんな大切なことにとうに気付いてもおかしくないはずなのに、切嗣もシロウも自分に嘘をつき続け、自分の信念を貫き通していた。
彼が抱える、歪みと揺らぎ。煩悶と懊悩。
公園の中央に立つ街灯が彼の姿を柔らかく光で包む。だがもうじきに雨でここは覆われるだろう。だからその前に──
「シロウ、あそぼ!」
椅子の背に凭れ掛かったままのシロウの背中から腕を回して抱きつく。普段ならば狼狽えて可愛らしい反応をする彼はいない。以前は光を灯していた瞳が今は翳り、こちらを見据えた。
「えへへ、びっくりした? 町を歩いてたらシロウがいたから、つい声をかけちゃった」
出来るだけ明るく話しかけようとする。無邪気さを感じさせる動作も笑顔も微笑みも自分にとってはそれらは全てが偽者なのかもしれない。これらの動作は他者と触れ合うことによって自分自身の中で作り上げてきたものだ。だから自分自身の感情がこれで正しく表出できているかということが、今まで他者と殆ど関わることのなかった自分にとってなかなか確認し辛い事項だった。
シロウに笑顔でいて欲しい、笑ってるところが見たいという一心で笑顔を作り上げる。
だが、彼はその姿勢のまま硬直し、身動ぎひとつしない。
「むっ。もう、シロウってば! 人の話はちゃんと聞かなくちゃダメなんだからね!」
彼の態度に腹が立ち、叱責するような口調になってしまう。彼の口から帰ってきたのは拒絶だけだった。折角会えたというのに、こんな時にお互いの態度で徐々に齟齬を来たしていく。それが何より腹立たしかった。
「……イリヤ。悪いけど、いまそんな余裕ないんだ。遊ぶのなら一人で遊んでくれ」
普段の彼ではないということはわかっている。だから自分はここにいるのだ。彼の言葉を鵜呑みにしてここに彼を放り出すわけには行かない。
「ええー? せっかく会えたのに、それじゃつまんない。あれからシロウここにきてくれなかったし。今日を逃したらまた来ないに決まってるもん」
そう言うと、彼は眉間に皺を寄せて抑えていた苛立ちを言葉として吐き出していた。
「別に毎日って約束したワケじゃない。それにもう夜だぞ。マスターは、夜に会ったら殺しあうんじゃないのか」
殺しあう、なんて普段の彼は皮肉でも言わない。なのに口を歪ませて自嘲するかのように眉根を寄せた。誰かに似ている、と脳裏を過ぎったのは恐らくこれが初めてだろう。
「なんで? シロウはもうマスターじゃないでしょ? だから今夜は見逃してあげるけど?」素直に疑問を口にした。
「っ──マスターじゃないって、イリヤ」
驚いた顔でこちらを見た。
ああ、そうか。
彼はこの聖杯戦争がどこまで錯綜し入り組んで仕組まれたものかを知らないのだ。無論、自分が聖杯であるということも知らないのだから、彼が戦線離脱したという事実をどこで知ったのかという疑念が浮かぶのも無理はないだろう。
「ふふーんだ。わたしに知らないコトなんてないんだから。シロウはセイバーを失って、リンはライダーにやられかけたのよね。けどライダーのマスターが倒れたから、残りはあと二人だけでしょ?」
彼らの状況を知るには意識を別のものに移し変えるという魔術が必要だった。だから昼間は行動を把握するために度々その術中に入り、彼らの姿を垣間見る。だから、今がどんな現状であるかも知っているのは当然のことだった。
「もう勝敗は見えたも同然だもの。ライダーのマスターは自滅するだろうし、アーチャーだってたいした事ないわ。セイバーがいなくなった以上、わたしのバーサーカーに勝てるヤツなんていなくなったの」
ふふ、と微笑む。事実だけを淡々と述べていくのと裏腹に、彼の顔は徐々に険しくなっていくのが判る。
──どうしてなのだろうか。
「ね、だから遊ぼっ! シロウはもうマスターじゃないから、特別にわたしの城に招待してあげる!」
きっとシロウもそうしたら喜んでくれるだろう、と踏んでのことだった。
突然後ろから肩へと寄っ掛かった腕を後方へと投げ出された。突然の事に受身すらとれず、よたよたと倒れこむ姿勢となる。
「うるさいっ……! そんな暇はないって言っただろう、遊びたきゃ一人で遊べ!」
それは助けを呼ぶことの出来ない慟哭のように聞こえた。
撥ね退けられた腕の痛みよりも痛いのは心のほうだ。完全な拒絶が、腕の痛みを通じて心のほうに響いてくる。
この土地に初めて来たときの目的は、切嗣を殺すことだった。本当は憎かったのではなく、自分を捨てた人間に思い知らせてやりたかっただけなのかもしれない。ただそれだけが日本に来る事にかけた唯一の望みだった。けれども、既にその目的の人間は死亡し、その時になって時間の経過と取り戻せない時間というものを味わった。
だが、彼に近しいものがもう一人いた。
本来ならば、その位置には自分がいる筈だった席に彼はいた。自分では処理できない感情が渦巻く。そう、あれもきっと八つ当たりに過ぎなかったのだ、と今ならわかる。けれど、彼は自分からあまりにも無防備な格好で殺されに来る。だがその無防備さに感情と名付けてよいのか分からない一抹の安堵が灯るようになる。
徐々に目的が別のものへと変わっていく。
──シロウと、もっと話したい。
今までの、他者が殆ど介在しない孤独感を埋め合わせるかのようにシロウという人間にそれを求めた。
彼は来てくれた。この公園で、ただ時間が流れるのを待ち続けただ二人で過す。それはどんなに望んだことだろう。嬉しいという感情や、暖かい感情が自分の中で膨らんで大きくなって満たしていく。秘密基地で探検する子供のようにはしゃぐ。
きっとこれからも、これが続いていけばと。
それがどんなに望んでも無理だと分かっていても、そう願う。
「あ────」
彼は突き飛ばしたことを後悔するような顔でこちらを見る。それは、ただ自責の念に追われどうしてよいか分からない迷い子のように見えた。そんな哀しい声で、悲しい顔で自分の在り処を探そうとしている。
きっとこの役目はわたししかできない。
それならば、わたしが指針となろう。
どこに進めばいいかを指し示そう。
「ごめんね、シロウ」
首を項垂れ、俯いたままの彼の頭にそっと掌をあてる。彼の茶褐色の髪の毛は少しごわごわしていた。優しく、一つ一つ髪の毛を解いていくように撫でる。まるで母親のようだ、と思う。そういえば、彼には母親という存在が不在だったことに思い当たった。多分、今お互いの関係は母と子供の関係になっている。ある時は兄と妹だった。そして彼が少し情けないときには逆に姉と弟のような関係になるときもある。不思議な関係だと自分でも思う。
彼はそんな自分の態度を不思議に思ったのか、怪訝そうにこちらの顔を覗き込んだ。
「……イリヤ。おまえ、怒らないのか……?」
「怒らないよ。だってシロウ泣きそうだよ? 何があったかは知らないけど、わたしまできらっちゃったらかわいそうだもん」彼のそんな姿を見ているだけでも辛いのだ。怒れる筈がない。
「だからわたし、シロウが何したってシロウの味方をしてあげるの」
「俺の、味方──?」
彼はそんな事に初めて気がついたかのように目を見開く。
「そうよ。好きな子のことを守るのは当たり前でしょ。そんなの、わたしだって知ってるんだから」
──今、決着をつけよう、シロウ。
その決着は恐らく10年前から始まっていたのだ。彼は他人を見ながら自分を省みることはなかった。そのツケがこの積年の呪い。彼は呪いを振りほどいてもそうしなくても、きっとどこまでも彼は罪を背負っていくしかない。
だから、彼が今、この瞬間。
どんな心を持ってなにを望んでいるのかということをはっきりとさせる。始まるのはそれからしかない。足に打ち付けられた楔を引き抜き、彼の心のままにすることが一番大事なのだ。
存在意義という呪いを今解き放とう。
「──ああ。好きな女の子を守るのは当たり前だ。そんなの、俺だって知ってる、イリヤ」
「でしょ? シロウがそういう子だから、わたしもシロウの味方なの」
頬が笑みを象る。それは心からの笑顔だった。今までのような相手に見せるための笑顔ではなく、ただ心から嬉しいと感じ、自然に頬が反応した微笑みだ。こんな笑い方が自分にも出来るのだ、と吹っ切れた彼の強い眼差しを受け止めながらイリヤは感じた。
「ごめんイリヤ。俺、そろそろ行かないと」
「そうだね。そういう顔してるから許してあげる。また今度会おうね、シロウ」
「ああ。またなイリヤ」
ありがとう、と言い残し、彼は立ち去っていく。もう楔は抜けたのだ。彼の足から感じる躍動感がそれを物語っていた。桜とシロウの未来をどうするかは、彼ら自身の意思だけで決定しなければならない。ましてや、彼は自分の足で未来を選んでいくという選択をした。それは今までになく過酷な試練になるだろう。
桜と士郎はきっと鍵と鍵穴の関係なのだ、と思う。一方がいなければそのものとしては成り立たないが、両極が揃えば途轍もないエネルギーを発揮する磁力のように。
雨が降り始める。しとしととした降り始めから、これから起こる出来事を暗示しているかのように雨は激しさを増していった。公園を後にし、アインツベルンの城へと続く道のりを戻っていく。
──わたしにも、しなければならないことがあるんだよ、シロウ。
新しい決意を胸に抱き、少年は去る。確かなものは何もなく、この心にある守ろうとする意思だけが自分たちを突き動かし、運命すら変え、奇跡すら起こしてみせるというのならば──それを見てみたい、生きていたい。
──彼が自分の為に自分を捨てるという決心をしたように、わたしもまたひとつの運命を変えよう。
それは、誰に吐露することもない自分だけに宿ったひとつの決意だった。
今だけは激しい雨も、きっと虹がかかる。
*
──Oath
誓い、宣誓、などの名詞。他に、法律用語に於いてはその意味も包含すると同時に、ネガティブな側面である「呪い」という意味も含まれる。
END
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