感じない男

また変な本を買ってしまった。だって立ち読みしたら面白かったのだ。これはもう不可抗力というか仕方ないことなのだ。その題とは感じない男だ。いかにも怪しい。で、中身も当然正統派なぐらいオタッキーのようで通常人にも十分あてはなると思えながらもきっとオタクな人間しか理解できないし読めないだろうな、みたいな。

ロリ萌えという言葉にピンと来た方はこっそりとひっそりとどうぞ。

女性はこういうのを読んで理解を深めたほうがいいのか、それとも読まないほうがいいのか、よくわからないけれども面白いからまぁいいか。

面白いと思ったことといえば、筆者は、少女に萌えるということは、自分がかつてなりたかったもの、今になる以前のものをそのまま時を止め生きている作り物の少女のようなままでいたかった、というものなのだと考えているらしい。そして、その意識は画面の中にいる少女へシフトし主人公ではなく同化する、と筆者は主張している。だからいろいろとあるエロゲの主人公の姿は自我や主体性や体がほとんどない主人公であるゲームにものめりこめる、らしい。

うーん、よくわからん。しかし最近は主人公が主体性を持ったゲームも確かに売れているし、別段主人公が目立たないものじゃなきゃだめ、というわけでもないと思う。

しかし、自分は主体性なしのエロゲがどちらかというと苦手だ。それはなぜか。たとえば画面上の少女が主人公のことを好きだと言ったする。そしてプレイヤーは彼女が好きだといった彼がどういう人間であるのかを反射的に考える。しかし、いくら考えてもこの主人公はどんな人間なのか思い浮かべることができないのだ。そして、そんなわけのわからない人間のことを好きだという少女もまたどういう人間であるのかわからなくなってしまう。ゆえに、できないわけではないが、苦手である、という理由である。また、主人公に主体性があるエロゲもできないわけではないが苦手であるという人間も同様に存在するのだろう。というか、それがなぜ苦手なのかという理由が判然としなくて惰性のまま、またストーリーがよいから、という理由で続けることもあるのだろうと考えられる。

何で少女に同一化するのかというと、筆者の主張はこうだ。

男であるという事実が自己否定につながる場合、それを打ち消すために自己欺瞞的である男らしさをことさらに思い込みだし、男であることに自信満々であるかのようにみせかける。それがいつまでも心の中にある場合、少女に同一化することでカタルシスを得、逆に女性への嫌悪を駆り立ててしまう動機にもなってしまうということらしい。

いわゆる少女幻想という、少女によいイメージしか抱いてないとか処女だとかいう願望は、女性に持ってほしいという願望ではなく、自分が持ちたいという願望のあらわれだということだ。

というか、これは逆にヤオイと呼ばれる、主に女性が持ちやすいこのあたりはよくわからない幻想と似てはいまいかと考える。というかヤオイの場合、女性同士の交流のために敢えて自分がそういう性癖だと見せる場合もあるし、そしてそれが本当になっていったり思い込んでいったりする場合もあるしで入り組みすぎて、最初からその性癖が存在したかどうかは言い難い。

という表現で言うが、同一化するものが受けの場合は先ほどの少女であり、攻めである場合はそのかつてもきれいだったものを汚したい(愛したい)というものだと考えられる。ヤオイは書店のBL本が幹並み並んでいることでインプリンティングされていることもあるし。表に出しすぎだし。

ポルノでいう男役、ヤオイでいう攻め役というものは、単純化して言えば、きれいなままなものを自分自身の手で改めて育てたいというものではないか。

たとえば、夢では人が死ぬ夢のことを成長や親離れという意味で捉える。何かを殺すことで新しいものが生まれるという考えだと思う。多分それはあたっていて、そしてかつてきれいだったものを自分自身の手で汚す(愛する)ということは自虐(育む)ということとと恐らく同一の意味を含んでいるのではなかろーか。とかどうでもいいことをつらつらと述べてみた。

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