少し以前の本
東浩紀さんと笠井潔さんの論争がサイトで公開されていたものを、そのまままとめたもの。
実際、公開の往復書簡とはかなり奇妙なのではないでしょうか。そもそも僕は、いまだれに向けて書いているのか。笠井さんに向けてなのか、読者に向けてなのか、読者といっても笠井さんの読者なのか、僕の読者なのか、僕の読者といってもウェブの読者なのか、それとも出版時の読者なのか。自分でもよく分かりません。
という言葉は書簡を読み終わる前の途中でもよく分かる。お互いの書簡といいながら話が噛み合わずまるでお互いが独り言を言っているかのようなものになっているからである。
とりあえず5通目からのやりとりで、私は対話として読むのをやめ、それぞれの意見として読むことにした。ただ、意見の論争の中に個人的な攻撃の意図があるかのような発言もたびたび見かけながら、だが。対談としてさえ見なければ、意見自体はとても興味のあるものなのに。そしてお互いの意見がそれぞれ間違っているわけでもないので、この齟齬には読み終わったときとても残念な思いをした。
そもそも、動物化する世界の中での動物化…
自分は80年代以降の生まれの人間だからそもそもポストモダンという言葉も教科書の中やセンター試験対策でしか散見したことがない。それに全共闘の世代を後からそんなことがあったのか今では信じられないなと感じるくらいだ。全共闘を体験した世代の方々は、どうも全共闘では~と語るだけでその説明はすっぱり省かれている感がある。そういう本を読んでいるのは全共闘の時代を知っている人間や同年代ばかりではないのに。私の読書不足もあるのだろうが。
立花隆さんは有名だが、やはりその話題に対しての説明はほとんどない。有名だからこそ、それに対しての意見も聞いてみたいというのは我侭かもしれないが。いろいろと間違った意見を言う人ということでも有名だが、その点の認識も語って欲しかったなーというのが正直。
全共闘に参加した人々はどういう考え方をしているのか、自分たちの世代との考え方の齟齬や接点はどこにあるのか。それを探ってみたいが、どうにもこうにも、簡単に語ることのできる過去ではないのかもしれない。それこそ自分は全共闘についてほとんど知らないに等しいので体験を客観的な視点で語る当事者がいればいいのだがと思っている。そこにこそ現代の世代との違いやいろいろな発見もあるのかもしれないのにな、と残念に思う。
同感と思った言葉を1つ。
「思想」や「文学」が伝統的に用いてきた言葉と、冷戦以降、グローバル化と情報化とポストモダン化の大波の中で急速に変貌を遂げつつある社会的現実とのあいだの、あまりにも深く大きな乖離の意識、といったものではないか。平たく言えば、要は、いま、旧来の思想や文学の言葉を担ってきた人々は、現実のあまりの変容にただ絶句し、それを解釈も解読も分析も出来ない、深刻な失語症に陥っているのではないか。だからみんな黙ってしまったのではないか。
黙っているのではないとは思う。だが、大きな意識の乖離が、間違った認識としてマスメディアで大きく喧伝されている事は言うまでもない。世代間の差はマスメディアでさらに助長される。
プログラム駆動症候群と動物化も似たような概念であると私はこの本を読んで感じた。
子どもがなんだかおかしい──教師達は首をかしげ、生徒たちに何を言ってものれんに腕押し、手ごたえがない、そう感じている。彼らは自分で考えていない、そしてマニュアル通りの与えられたプログラムを駆動するだけ。それを心理的無組織化症候群、PDOSという。動機はないのに行動だけ起こすという若者が増えている。私達は、自分の心は自分で守り作り上げなければ、心をつくることのない人間になってしまうかもしれない。
昭和50年代の世代と、90年代の世代は全く違う意識で構築されていると言っても過言ではない。例えば、高校入試におちた学生が職員室を襲ったという事実を、大人は「落ち込んでもどうしようもなく、やけになるしかなかった。職員室を襲ったのは、先生に対する不満や今まで鬱積していた怒りが入試におちたことで爆発した」などのように理由をつけて解釈する。だが違う、と著者は述べている。
推薦入試におちた今後の時間を使うことが出来なかったからです。自分から今後どう行動を起こしたら良いかがわからなくて(心がないから)この使い切れない時間を試験に落ちたときのお決まりの行動をとって消費しただけです。職員室を襲ったというのも、学校管理の最も象徴的な場所を攻撃するという発想ではなく、教師は何時にあそこに集まるから、くらいの単純な手順進行です。
と解釈している。
私は、常々大人たちの都合が良いとも言える解釈に疑問を感じていた。何かが違う。と。それは説明のつかないほんの単なる心の引っかかりだった。だが心がないとこの著者ははっきりと言ってのけた。心ということばだけが一人歩きし喧伝されている昨今、権利が主張されたら否定することが出来ないように、心を否定する事は悪であるというような風潮さえある。
大人自身がよく知らない 青少年の新規の現象を青少年なりの自然発生的な現象であると考えるのは根本的に誤っています。それは大人が教えていないゆえにあらわれた心の無組織化の現象なのです。青少年の心の現象ではなく、青少年の心のない現象なのです。
(中略)
大人は、子どもたちの心のありかを読み取ろうと必死である。誰もが、もっとよく考えなければ、もっと子どもたちの気持ちを理解しなければならないという。しかし何か根本的な誤りがある。なかなか理解できないのだ。わたしたちの大人としての想像力と思考力をもってしても理解できない、把握できない、解釈できないということは一体どういうことなのだろうか。もしかすると、わたしたちが大人である限り永久に理解できないのではいか。そんな不安が心をよぎる。この不安の最中にふと見えた光景がある。これこそ、子どもたちを襲っている不気味さの正体なのではないか。理解するものがない……。把握するものがそこにない。解釈するものがそこにない。つまり、心がそこにない。子どもたちは、心をもたずに立っている。心をもたずに行動している。心という内面をもたずに、子どもたちは行動を起こしている。そんなことが起こるだろうか。ジョークでいえても、そんな心ない行動の起こり方が、はたして人間に可能だろうか。可能……らしい。
心がない、というのはとんでも論っぽいがないというのも飛躍しすぎだろうとは思う、それでもそれ相応の事態が起こっているという事は否めない。ないかもしれないという著者の感性の鋭さには舌を巻くが、やはりないからそこからどうしたらいいのだろうという生産的な展望が見えて来ない確かに難しいのかもしれないが。
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