創作者と読み手の間隙にある創作物

Introduction

私は小説を書くが、小説と云えるほどの技巧や語彙はない。大体小説を書きたいと思ったのは高校に入ってからで、そこでやっと本という媒体の偉大さを知り得た。ミヒャル・エンデの本は繰り返し読んでいたが、量としてはたいして本を読まなかったので今でも日本語がどこかおかしくなる時がある。あるのは、自分の妄念なのか思想なのかよく分からない煮え湯を小説という媒体にぶつけてやれという衝動からだった。イラストや漫画もそれに起因する。

創作するということの普及

以前、身体を動かす、脳を動かすにも、体を動かせば脳の労力は体の方に向く、というような事を書いた。体をあまり動かさない生活をしている人間が増え、考える事が多くなる。そして余暇が拡大する昨今では、脳をどう使うかを考えるほどの時間がある。以上のことから、過去は抑圧としてあったものが創作や趣味に没頭する事が増大している傾向にあると言える。ここには元々のパーソナリティによる違いもあるがここでは割愛する。

終戦時以前までは殆どの日本人は本を読むことが出来なかった。だがいまや本は身の回りに溢れている。毎日送られる新聞、雑誌、溢れ返るような本の数々。それを読み消費する読者。たまに立ち止まって考える事はあってもそこにあるのはやはり消費なのだ。私の文章や創作物も、世に出れば加工されたレトルト食品のような消費物となるのだろう私はレトルト食品は好きだ

さて、その衝動はどういう表現で顕されるか。自我が芽生えた時に気が付けば本もメディアもそこにあったという世代がどういう形の衝動を作り出すかは想像に難くない。子どもはやはり身の回りにあったところからできるかどうかを実験していく。できないと判断すれば中断する。

創作物には限界というものが無い。そしてこれは最低限必要なものだというレベルのラインはあっても、それなりの体を為していればそれはオリジナルで個性あるものとなる。子どもの中だけの狭い社会性だとしても、それは認められるという優越感として感じられる。小中学生の学習意欲の動機でも、小学生の時は、社会的に認められたいという欲求と、遂行志向という形で自分の価値や優位性を高めていきたいという欲求が強くあるということが考えられている、と述べた。価値を高めたい欲求は強くあるが、勉学で競えば必ず勝者と敗者が出てくる。お金持ちと貧乏人がそれぞれ成り立つためにはお互いに不可欠である様に。そこで「個性」という言葉が注目された。序列ではない"何か"があればそれでいいではないかという見解があった。それは詭弁ではあるが、敗者と成り得るかもしれない子ども達の防波堤であり、自分に対して厳しくならなくて済む見解だったのだ。

斯くして、個性があれば何に、というのは分からないが許される──そのような風潮が出来上がっていった。

創作物の中でも漫画やTVゲームはいまや日本では一文化となっている。そしてそれに感化された私たちの世代はオンライン、オフラインでも問わず創作物を作り輩出している。創作するということ自体が昔で云う野球で遊ぶというような気軽な感覚となんら変わらなくなりつつあるのだ。

創作を通じて共通の話題が欲しいという欲求がそもそもの理由である人もいるだろう。

創作物は、創ればそれは個人の創作物であり個性あるものだ。しかしもし、それが消極的な、衝動を発散させる為だけの創作物であるとするならば、そしてそこに上達しようとか研鑚しようとかいう向上心がないものだとするならば、それは創作物ではあるが同じように創作している人間としては悲しく思う。普及するとか流行するということの裏には怠惰や思慮の浅さが少なからず含まれているからだ。そしてそれが悪いほうにばかり目立つというのは各メディアが実証済みである。

創作者の露呈

ある者は脚本のようなものを「小説です!」と元気良く公開していたりもする。これに関しては年を重ねて何かしら変化が訪れるかも知れないので生暖かく見守ると良いように思われる。

十代後半~二十代前半のそれは、十代前半の彼らと状況が違う。自分が何をどうしているかの自覚はあるものと思われるし、客観的に見ても二十代前半の彼らが軌道修正する機会はより少ない。その点において傍観者は、更正し損ねた不良少年を見るのと同じような感情を抱くこともあると思われる。

ファンタジー小説嫌悪から来る批判の根幹はもしかしたら先述した影響から来るものではないだろうか。

大人になるとだんだんと頭が固くなるというが、10代後半までは成長していたニューロンが20代になると徐々に脳細胞が破壊されはじめるので、これはある意味正しい。実際身体的に大人になってから精神的に成長できる人間は少ない。できる人間は最初からできる人間だったのだ、とこの際はっきり言っておく。だからこそ、「子どもの頃に軌道修正できない人間ならば、これからもきっと無駄だろうな」という空虚な諦観がある。創作物は良くも悪くも、その人の人間性や考え方や生き方をも露呈してしまうので、見る人は創作物を見ているようで、実はその人の日記を見ているような気分に陥る。このコントロールが巧い人はこれを感じさせない。

巧く感情のコントロールが出来ない、というのは未成年までが見守る事のできる範囲であり、ひと度大人がそれをやればそれは許容範囲ではない。更生し損ねた不良少年というのは言い得て妙だと思う。

読者の浸透

正直言って、私も単なるファンタジーっぽいというだけの話は好きではない。ファンタジーをイメージすると、何故か鎧を着た人や中世の西洋的な剣が出てくる。 読者に見せよう魅せようという意識があればどこかは設定を捻り倒したり組み立てたり壊したりする。あまり考える事をせず、自分だけが楽しいと感じるような創作物はどうなんだろう、と考え込んでしまう。それもまた創作物という言語の定義に関わる事であるためなかなか踏み込んでいけない領域ではある。創作物というのはどんなものでも否定できそうで否定できないモノだ。それが難しくもあり、単なるデータベースではなく芸術として培われてきた証でもある。

だが、創作物は読者に触れて初めて階層的、レベル的なものを表象させる。読者がその作品の価値そのものを決めると言ってもいい。

先述した書物の普及と浸透によって作品の価値はどのように変化してきたか。書物の価値を決めるはずの読者そのものが、どの書物が価値あるものかというものを決定付けられない結果となっている。

本当に良い作品は、情報過多の宣伝の中に埋もれていく。本や文字に初めて触れるような読者は、この中でどの情報を選ぶかとすれば、一番目立っている情報に飛びつくのだ。それが良い作品か悪い作品かというのは分からないが、この情報過多の現代では、その一つの普通の情報に無理矢理価値を付け装飾をし、大袈裟に触れ回りあたかもそれが当たり前であるかのように振舞わなければその業界では生き残れない。そして普通の穿った見方をしない読者はそれを鵜呑みにしてしまうこともあるのだ。それが、書物の普及と浸透によって生じた問題でもある。

創作物の価値

どれが価値あるもので価値のないものかということは読者が決め、そして世間や環境が決定する。だがその中でも、素晴らしいものは素晴らしいのだ、ときっぱりと云える価値観を持って欲しい。自分がその手に触れ感動したもの全てが価値あるあるものだと思って欲しい。価値の無いものなどないなどと言うつもりはないが、自分の中で自然に感じた事ならそれを通して色々な事を考えて発展させていく事自体が素晴らしい事なのだと思う。

などと云いつつも、私自身もやはり自分に自信が無い。所謂失敗恐怖だ。それを自分自身が乗り越えない限りだめなのだと自分自身に言い聞かせる。創作してそれを顔も名前も知らない誰かに伝わっていく事自体が私にとっては嬉しい事なのだから、やはりどう足掻いてもこの衝動からは逃れられそうにない。

で、こんなん考えてどうするんだろうと思った事は枚挙に暇が無いが、考えて何かが開く未来がみえるようで、やっぱりそれを見たいがために考えてしまう。

色々と考えている中で仮説のようなものを思いついたのでメモ。

子どもにとって身近となるTV番組は多岐にわたるが、アニメーションに最も感化された場合、ファンタジーを創る傾向が強くなるのだろうか、そしてアニメーションを多く閲覧した子どもは創作物に着手する傾向が強くなるだろうか、という疑問。現実逃避からファンタジーが作られるのだとすれば、自然とファンタジー小説の傾向は自己満足に終始している創作物が増えてくるということになりはしないだろうか。性格特性と相関を調べてもいいかもなぁ。そういう研究ないでしょうかね。その仮定が正しい場合上記のようなファンタジーが何故創作されやすく普及されやすいのかということがまた考えられそう。

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ファンタジーに対する考察に対する考察
創作者と読者は、良くない依存関係にあると考えています。

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