セカイ系のハナシ
自分の考えとしては、セカイ系という物語の基本は哲学、心理学などの学問から解釈、また物理学や量子力学からのSFへの転用から日本の作家がさらに簡略化しライト化したもののことをさすのだと思っているのだけれど、どうなのだろう?
結局のところ、セカイ系という言葉を作った人にすれば、それらは皮肉の対象だったのではないか。
セカイ系はポスト・エヴァンゲリオン症候群とも呼ばれているらしい。
エヴァンゲリオンというアニメは最初から最後までビデオで見た。当時は存在を知らなかった為あとでまとめて見たことになる。絵も画質も線も出来も今までになく奇麗で丁寧に作られ、アニメとしての動きは素晴らしいと思った。ただ、最初は追う様に観ていたものが、物語の終盤になるにつれてわけがわからずなんなんだと思った。結局最後が気になってしまい最後まで見てしまった記憶がある。それでもやはりわけがわからなかった。
物語には起承転結というお約束があり、結には必ずすべての複線が消化され、読者にも分かりやすく伝えられるものなのだと当時考えていた私にとってこのわけのわからなさは奇抜という意味で衝撃的だった。
今でもエヴァンゲリオンは私の中ではきちんと収束した物語としては認めていない。けれど、こういうものがあってもいいだろうとは思っている。
SFならば、起こった現象を説明しなければならない。ファンタジーならば、地に足をつけた物語と地理を構築しなければならない。そういういわばお約束を殆ど放棄した物語は、わけのわからなさを通り越して疑問のつけいる余地を与えてはくれない。
セカイ系の定義は曖昧である気がするがそもそも造語であるし、そもそもの世界系とセカイ系を分け学と俗を分けることになったのかもしれない。言い換えておくと、世界系というのはセカイ系と分けるためで、そもそもの物語の中にあった認識、解釈などの学問を取り入れた文学のこと、そしてその中にあったものを更にわけたものがセカイ系ではないか、と考えている。
もともとのSFの中から分けるため、セカイ系をつくった。もともとの文学から分けるため、ライトノベルをつくった。そういうことなのではないだろうか。
自己とその周囲しかなく、物語でもその部分しか扱わないというのが顕著な特徴なのだろうと思う。少なくとも今まで自分が見てきたセカイ系っぽい作品はそのような傾向であり、またセカイ系と呼ばれる作品もまたその傾向がある。それまでの作品では、どんなに哲学的なテーマを持ってきていたとしてもそれでも客観的、第3者的な視点、客観性のある文体を崩すことはなかっただろう。
斜述小説というものがある。推理小説で、一人称のトリックとして扱われる手法だ。考えてみればこれに似ている。そもそも斜述小説は、ミステリーをエンターテイメント化するために使われており、推理した読者を驚かせ且つ楽しませる。
そのようなエンターテイメントの流れと純文学、哲学、SFなどのよく読まれている書物が合わさった複合小説なのではないか。 そのため、セカイ系と定義されても曖昧性が残るのは当たり前と言えるだろう。
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