モヒカン的な思考実験

モヒカン族とはなんぞや

こういうのって普通にいるよね、という話。

ネットだと言説に力点を置かれるからどうしてもそこに価値を見出して他者の攻撃に利用する人が出てくる。意図するところは人によってまちまちですが一致するところもあります。

  1. 他者の気持ちを排し、ただ発せられた言葉によってのみ言及する。
  2. 真性(確信犯)と偽称(あえてそういう態度をとらざるを得ない場合)がいる。
  3. 悪気はない。
  4. 悪気はないが、それを所構わず発言すると、悪気のある非モヒカン的な共通意思を持ちたいと志向する人間が我も我もとその論理に食いつき賛同する為質が悪い。

イメージとしては逃げる人間を本能の赴くままどうしても追いかけてしまう熊さん。そのような人間の心情をモヒカン族に類するであろう精神状態の人間の心を煽るような記事は、煽るつもりでない限りは、Web上で安易に記述する行為は危険であると考えられます。

彼らの心を揺さぶる文面は

  • やたら断定的口調
  • そこに加わるちょっとしたミス(でも些細なもの)
  • 真摯に返答する人であること

そこにもやもやとしたどうしようもない衝動と沸き起こる言葉が溢れ出し、その完璧さの中にちょっとした綻びを見つける探険家のような気持ちと、僅かな攻撃性を以て他者を粉砕せんと言葉を打撃力へと変換するのでしょう。しかしどんな巧い人でも綻びはあるわけで、何故か巧い人ほど、綻びを見つけるのが巧いモヒカン族スキルの高い人種がそこに集まってくると言う悪循環が発生する。

そして、それが一度炎上したらいつまでもどこまでも突っ込み続けられます。もしそういう状態になり止めたいと思ったときの対処法としては、相手の気持ちに訴えることです。間違っても自分の気持ちを訴えたりしてはいけません。おそらく返答がそういうものであると困惑してああ、違う人種なんだなと思ってくれることもあるでしょう。思わない人も中にはいます。思ってくれたらいい人だなと私は思うことにしています。こっちは議論に参加しませんよ、ということを表明してかつ理解してくれてるわけですから。

それでも議論を展開してくる人には、議論に議論で対抗してはいけません。偽称である場合は、議論に乗っかっても最後は切りのいい形で議論を終了することができますが、本気でぶつかってくる人はどこまでも終われない。そういうのは見極める必要があります。どこで見極めるかと言うと、その場の空気を読めてるかどうかでしょう。本気の人は空気なんて気にしません。ただ、たとえ空気を読んでいないとしてもまともな議論を要求している人に空気読めなどとか人の気持ちを察しろという返事はあまりにも感情的過ぎる返答でありより炎上をもたらす発言である場合もあるため、普通に返答して様子を見るが吉でしょう。

それから、モヒカン族はデータベースのみで感情を交えず議論を展開しようとする傾向にあります(帰納的)が、非モヒカン族は自分に確固とした感情があってそこから理屈を展開する(演繹的)節があります。ですので、モヒカン族、非モヒカン族というお互いに全く違った性質の人間でも同じような様相を呈しつつも議論でどこまでもぶつかってきます。それらも見極める必要があるでしょう。

個人的には、演繹的な発想をする人間は概して非モヒカン族であると考えています。

もし管理者が非モヒカン的な発想の持ち主だとすれば少なからず返答は空気読めに終始するでしょうし、もしコメンテータが非モヒカン的な発想の持ち主だとすれば少なからずその発言はどこまでも族く長蛇のコメントになるでしょう。

Web上では彼らのような人間がコメントしたであろう長蛇のページがいくつかあります。しかしモヒカン族傾向の事実の直裁的な指摘はやはり嫌がられることのほうが多い。言い方を変えれば内容的にはまともに受け取られるであろうに、挨拶や無駄なものを一切省いた言動をするためそういうものが理解できない人にはとことん嫌われてしまうということになってしまっています。大概の場合、管理者にとって本当は失礼な言動というか無礼なところが嫌なだけなのでしょうが、感情的になり指摘そのものが間違っていると見当違いな非難をし、今度は非難したことを非難するというループになってしまう。

とここまで書きましたが、私はモヒカン族と非モヒカン族を分類する気はなく、傾向が強い人はこういう行動を取りやすいということを述べたまでです。

しかし何故非モヒカン傾向の人は相手(大抵は自分のこと)の気持ちを考えろとこっちの気持ちをまるで無視したことを言うのかと、とてもとても不思議でなりません。お互いに思いやりを持たなければならないということですね。とありがちなところに帰結してみたり。

絵と文章の違い

ところで話は変わり、萌えあるいは同人誌とモヒカン族を読んで思ったことを。

絵描きと文章書きはそもそも読者層が違うからつっこみ屋やモヒカン族な方の比率も違うんではないかと考えました。

絵描きの人はなんか突っ込まれるということがないよね、という話をしたことがあるのですが、絵はそもそも感情に訴えることを主目的とし、論理的なものがもしテーマにあったとしても目に見えることはありません。要するに、最初に述べたモヒカン族を敬遠するならば相手の気持ちに訴える事と同様のことが起こっていると言えるでしょう。なので自然と、絵描きと文章書きの読者層が別れてくるという。

塊に見える社会

ネットで討論などをされている方々を見れば、ムラ社会というよりも他者からは一定の塊に見えるコミュニティのようなものに見えます。ムラ社会だと窮屈でプレゼント交換とかしなきゃいけないし(偏見)笑顔で愛想振りまいてないとあいつは付き合い悪いとかこそこそ本人の前ではなく影で言われるしで正直イラついてしまう。影で悪口だけならともかく、集団で固まって偏った情報を共有しあうというのがどうしても私には肌に合いません。どうせなら自分で情報を取捨選択し自分で決定したいと思えるような事柄を、無理やり方向転換させられる事態になります。

少なくとも、非ムラ社会的なコミュニティにはそういう風潮はない。だからそもそも性質の違った社会といえます。ムラという敢えて小さいコミュニティに属し、それ以外のよそ者を排斥する風潮とは全く違います。

しかし、モヒカン族でなくともこういう日本に良くある風潮や構図に悩んでる人は多いでしょう。少なくとも、根っからムラ社会的な人間も少なく根っからモヒカン族的な人間も少数派であって、その中間のほうが大多数なのだと私は思います。けれども強制力自体はムラ社会的なものが大きい日本の中では、その強さに引っ張られたり引き込まれたり或いは仕方なくいたりする者のほうが多いのではないでしょうか。仕方なくいる、という場合の人間は一番辛いかもしれない。

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