思考の飛躍
クリティカル・シンキング
クリティカルシンキングという本をご存知でしょうか。
クリティカルシンキングをかなり要約していうと1冊の本でも足らないほど説明しなければならないことなのですが、人が持つカテゴリー認知が、バイアスとなり視点を狭め認知を歪ませている。そしてそれは決して私達の日常に関係のないものではなく、周りに存在するあらゆる事柄を認知していっている過程で発生してしまうものでしょうか。
赤緑黒白の、人間は視点を飛翔させるために生まれてきた
というのは私達がこの世界を把握するものを包括する言葉だと思います。例えば、
私はどうして彼を見るたび不快に感じているのか、と疑問に思っていたとします。彼は私に不快になることをしたのだろうか。そうではなく、私が勝手に彼の不快な部分だけを注意して見、彼の人格そのものを不快だと感じているだけなのかもしれない。なぜそういうネガティブな部分だけに注意して、しかもその注意したものを彼の全てではないかと半ば彼の可能性を諦め判断してしまうのか。
というような些細な思考ですが2次元の視点ですね。だいたいはこの2次元の視点で事足ります。生産者と消費者。加害者と被害者。奉仕者と被奉仕者。これらをあくまでも、かなりの正確さを保つことができれば判断も、クリティカルシンキングを周囲に与える意見を述べることが可能、かもしれません。だって与えれているかどうかなんて私にはわかりませんから。
例では、不快であるという曖昧な主観→ふとそのことに対するちょっとした疑念もしくは不安→丼勘定であっても、自分の行為に対する統計→不快であるという判断には偏りがある。→感情に判断を委ねるのは不確定だ。になるでしょうか。ちょっとした疑念がなかなか厄介物ではあります。その疑念はどうやって身に付けることができるのか、身につけたことをどうやったら証明できるのか。
視点の飛翔に快感を感じれば、ある程度の証明かなと。視点の飛翔といえば。昔の人は地球を平面として見ておられたんですね。まぁ昔には衛星なんてありませんから、客観的な、衛星という飛翔した視点もありませんでしたし、交通的に見ても簡単にその謎を解きあかそうとするのも容易ではなかったからに起因するのでしょう。だから目に見える水平線から、この水平線はどこまでつづくのかな―というのは私もすごく共感できます。私も幼稚園の頃そんなこと思ってた覚えがあります。だけど、私は小学生に、本でなのかメディアなのかわかりませんが、既に、丸い。と思っていた気がします。そのころドラゴンボールが自分の中でマイブームでして、そのエンディングになんか悟空が丸い玉の上をスタッフロール中延々と歩いたりこけたりするというのがあったような。それはともかく、それを疑問にも思わず受け入れ、それをカテゴリーにはめたまま、今に至る、というわけです。実際それは事実なわけですが、その疑問にも思わず受け入れる、という過程は、昔と何ら変わりないわけです。もしかしたら、この事実もただの人間としての認知なのかもしれない。私のような普通の人間には、一人一人の視点をインストールし、それを自分のフレームの中で織り上げて頭の上に飛ばすしかないのかもしれません。
視点の飛翔を促すための言葉
以下のことは自分に言い聞かせていることです。日常で、しまった、と後で後悔して思うことがいっぱいあります。私の日常に対する苦悩とでもいいましょうか。自分が失敗した、と思った言葉、態度集。
- 決していい人だね、頭が良いねなどの安易な、そして普及した気休めのようなほめ言葉を言ってはならない。そのときはお互いの関係の安定も保たれ好意的な印象を抱かせられるかもしれないが、普及した言葉であるため、何度も言うと平凡で閉塞的な印象を与えかねない。変な人だね、面白い人だねは可。私はその言葉が好きだからである。なんて主観的な。(お体)大丈夫?は社交辞令。
- 感情的な意見を述べたいときでも、感情的な批判をしてはならない。議論を著しく阻害する。もし言ってしまった場合、相手にとっては関係のないことで無視される対象に位置していることを忘れてはならない。というか実際は無視するよりお互いに怒り合うのが多いのかな?
- 行動という結果のみを、相手の属性だと思わないほうがいい。行動には必ず思考過程が存在するが、ある行動が、自分が推測する相手の思考過程が行動の原因だと思うことは間違いを招く可能性が大きい。たとえば、私がいつもとは違う口調、違う態度、違う服装をするとしよう。それは相手からすれば逸脱した行動であるため、珍しいねという。だが大体、私はたまたま違う態度をとっただけで、気分が悪いとか趣旨替えをしたとかいうつもりは毛頭ない。つまり、相手は私の不可解な行為をこういう理由があったんだろう。と思ってしまうのだ。だが、私は自分でも不可解なのだから、そんな原因を作られてもそうですか、そう思うんですか。としか言えない。私は、自分の行動を常に不可解だと感じているのに。
- 少ない、多い、は、丼勘定で測ってはいけない。少ないのは、たまたま私が単にそれをあまり見たことがないだけかもしれない。多いのは、たまたま私がそれだけを多く見ているだけかもしれない。自分の周りを取り巻くものがかくあるからといって、それを周りに延長して考えるのは、間違いを生み出してしまうこともある間違いとは何かということは自明である。私と相手の齟齬。日常的な会話でもそれを出さない努力も必要。どうしても、少ない多い、ということは感じてしまうからである。
最近経験したことを列挙しました。森博嗣さんが言ったことで、これは素敵な言葉だなと思ったのは
拘らないように拘る。
これに尽きます。一言で包括できるのが格言のすごいところ。思考の応用はいくらでも利きます。また、厳密でもないため誤解もありますが。
イメージから派生するカテゴリー。映像からの抽出。
以上のことから、自分の行動に対しての責任も考えていかないと、周りからどういう目で見られているかなんて気付きやしない人になってしまうということは肝に銘じつつ。しかし、やはり自分の考えていることがなかなか行動に移せないシャイ死語な人のいるわけで、どうやっても空回りして誤解されてしまうなんてことがあります。そのため、そういう人はそういう誤解を受けないための、行動の訓練も必要ですね。また、誤解を最小限に抑えようと行動から推測するほうが、もっと必要だと私は思っています。
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