オメガの沈黙 BOOGIEPOP ------------------------------------------------------- 【glas-gather】 http://glas-gather.org/ 真皓 伽夜 [高校生のときに初めて書いた作品。恥ずかしいので下げていましたが、もしお読みになりたい方が居ましたらどうぞ。] -------------------------------------------------------      一 Prologue          風が凪いでいる。  海が遙か見渡せるこの場所は、時化とは打って変わり、凪ぐ時間帯になっている。手摺りには、何年もこびり付いている手垢が残り、下を見ると、手摺りが倒れたらどうなるか、と思うと手が汗ばんでくる。  誠一は、廃ビルの屋上で物思いに耽っていた。向こうの方にプレハブの小屋が建っているが、おそらく人は住んではいまい。  ここを建てた業者は、この建ち並ぶビル群を解体する充てもなかったのだろうか。間断なく界隈しているビル群はいつまでも屹立して、いつ取り壊されることになるのかと思う。  物議を醸している己が身を感じたら、この様なところに来たくなるもので、鳥の声がするだけの、物音一つしない殺伐としたところで、一人佇んでいた。  しばしの時が流れ、ふと誠一が振り返ったとき、 セーラー服を着た高校生らしき少女が、こちらをじっと見ていた。    誠一は、その少女が自分が気付かないうちに背後に顕れていたことに、ひどく焦燥を感じていた。それも、この様な場所であるが上に、尚更。さっきから少女は身動ぎ一つせず、仁王立ちになったままである。 (なにか、おれに言いたいことがあるのかもしれない)  誠一は怪訝そうに、少女の真摯な瞳を覗き込んだ。  すると少女の唇が不意に動いた。 「あなたは」  町中であったなら掻き消されてしまいそうなほど小さな声だったが、この場所であったがために、少女の真摯な声だけが響いた。その声は、微かに震えている。 「あなたは――操られていると思う」  第三者が聞いていたら奇妙な質問だったが(おそらくその問いの真意すらもわからなかったに違いない)、誠一はこの少女の思いを察したのか、おどけた表情をして見せ、手を上向けに広げ口許を歪めて寂しそうに、笑った。 「――どうだろうね」  そしてこれが少女と誠一との出会いでもあった。      二 愚者 ――The Fool――    我々の敵は、いつも沈黙している。                ヴァレリー 「ただいまーっ」  霧間凪はいつものように、小学校から元気良く帰ってきた。しかしそんな年代とは思えないほど、大人びた風貌を、凪は備えていた。  男手一つで育てたからか、どうゆう訳か、小学校に上がる頃には男言葉らしき言葉使いをしていた。  凪は、いつも誠一が執筆をする仕事部屋のドアをノックした。 「あれ、親父」  返事がない。寝ているのかと思い、ドアの音を立てないようにそっと開ける。  凪の思いとは裏腹に、誠一は何かに取り憑かれたようにペンを走らせている。 「おーい、帰ったんだぞ、っと」  誠一の手が止まった。 「ああ、おかえり。夕食は何だ」  背中を向けたままで返事をしたが、また手を動かす。  殆どは、凪が2人分の食事を作っているのである。誠一は申し訳ないな。と思いながらも、やっぱり仕事の方に熱中して他のことを忘れてしまうので、いつの間にか、夕食はいつも凪が作るということになってしまっていた。凪も、そこのあたりは理解して了承してくれているので、何とも言えないのである。 「うーん、まだきめてねーけど、親父、何かリクエストしてくんない」  誠一は椅子をキィと鳴らし、口元にペンを当てて考える素振りをしてみた。 「八宝菜とほうれん草のお浸しなんてどうだ。不似合いで意外と口にはあったりしてな」 「うーん、色彩的にはあってるんじゃなぁい」  凪は、挑発というか意地悪そうな笑顔で誠一を揶揄した。  そして二人同時に、プッと吹きだしていた。 「まぁ考えとくよ。うん」  凪はまだ余韻の残っている笑いを、お腹をこらえて我慢しながら言った。  不図見ると、この部屋に電気が灯ってないことに気付いた。 「って、おい親父、電気ぐらいつけろよ。目悪くなっちまうだろ」  誠一は意に介さず、 「まぁ、目は元々、悪い方なんだけどね」 と、冗談とも吐かぬ科白を飄々と言って肩を竦めた。  そしてまた、ペンのこする音が部屋の中に響く。  凪は訝しげに誠一を見た。睨んだ、のかもしれないが。 「親父、何かあったのか」  鋭い洞察力で、凪は父親の態度の異変を悟っていた。それでも、誠一の毅然とした態度は相変わらずとしていた。  凪は、複雑な溜め息を吐いた。 「親父、昨日何があったのかは知んないけど、やっぱ、何かあったら言って欲しい。親父は昔っから何から何まで一人で抱え込んじまうんだもん。それじゃあさ、一人娘としては寂しいだろ」  語尾がはっきりしない口調で、誠一に向かって言った。  目を向けてみると、書物が高く積まれている。心理学、哲学、宇宙科学、そして誠一自身が出した書物。そしてそれは、辛うじてバランスを保っている。  凪は、そんな父親の背中姿を見守った。  暫くの間そうしていたかと思うと、凪は踵を返して振り向きざまに言った。 「夕食は、八宝菜とほうれん草のお浸し! 机に、出しとくよ」  ドアの閉まる音が、誠一には優しく聞こえた。  その少女は自分の本を読んで、しかも手紙を書いて送ってくれていた子だった。  少女の名前は十六夜 卵(いざよい らん)。名前を聞くと、なるほどと思って納得したが、身近に、それも自分の顔を知っていて、なおかつ自分の書いた本を読んでいる人がいるというのに、複雑な思いが湧き出てくるのを禁じ得なかった。  ついこの間には、公園で別の少女と出会ったばかりだった。 (時間的に見積もっても、ここ数日集中的に変化が大きいな)  誠一は自嘲気味に笑った。 「先生、って不思議と親近感が湧いてくるな」  先生、と言われると妙に照れくさい。こんな風に呼ばれるには、読者からや、凪とふざけ合っているときしかないからだ。  面と向かって言われるのには少し抵抗があったが、この少女と話しているうちに段々打ち解けてきていた。 「ねぇ、先生は"自然淘汰"って言葉をどう思う」  彼女は高校生の筈なのに突拍子もない事をきいてきた。  髪を掻き上げる手が、大人びている――というか、子供に戻れなくなってしまった事を如実に物語っていた。  彼女は、これまで(と言ってもつい最近なのだが)誠一が出会ってきた特異なもの達と同じ様な扱いを受けて育てられていた。  彼女が他人と違うことに気付いたのは、小学校に入学して間もなくのことだったという。頭が良かった、その為に迫害を避けるためか、彼女は自然と他人と距離を置くようになった。むろん両親とも。  両親もそれ程子育てに従事せず、彼女は親に放任されたまま幼少を過ごしたということだった。  誠一は数分押し黙って考えていた。  彼女も、それに相応した期待感をもって、誠一から言葉が紡ぎ出されるのを待っていた。 「それは、つまり生物の進化と適応――ってことだよな」  その言葉に反応して、彼女は身を乗り出して聞く体勢をとった。 「子供は、自分の生存に好都合なことを、環境の全体を見渡して学習するんだ。――それは、結果としては適応と呼ぶことができる。  しかし、適応というのは斯くも恐ろしいものでね。それが人間――社会にとって善であろうと悪であろうと、そんなことは関係もなく知らず知らずのうちに進行して行っている。まぁ、殆どの人間は善と悪という意味すらも取り違えているからどうしようもないんだけどね」  例を取り上げて話せば分かりやすくなる話を、誠一はわざわざ懇切丁寧にもそうせずに、抽象化された言葉で言っていく。  "常套句では物足りない"が、誠一の矜持だった。  勿論彼女は内容を理解しているのだが。 「だからその場合、適応と可能性、2つの狭間の歪みが"何か"に淘汰されているんだろうな」  最後のほうは、会話をしているでもなく殆ど呟きに近かった。  彼女と同様に自分に手紙を送ってくれていた子のことが、鮮烈に蘇った。いま言った言葉に、誠一は既視感を覚えたからだ。  その時の手紙の内容に異変を感じた誠一は、榊原弦という友人と共に、その子の近辺に調査に行った。手紙は、編集局から自分に回ってくるまでに結構なタイムラグがある。1ヶ月ほどは編集局でお預けの状態なのだ。驚いたことに、その子は自分に手紙を送ってくれた2日後に、学校の階段から転んで息絶えていたそうだ。  調べていくうちに、自分に手紙を送っていた子の何人かは、実に不可解な死に方をしていた。それも、跡形もなく、証拠も全て無くして。それは最終的には全て自分とリンクしていた。  其処ではじめて、自分が殺されると言う実感を味わった。 「じゃあ、いまの私達の生は意味のないものと言い切っても良いの」  彼女は今までになく饒舌になっていた。二人とも気付かない内に、話に没頭していた。  頭の回転が速いのか、彼女の会話は飛躍したものだった。  "淘汰"と、"生に意味がない"ということが連想して出てくるのは、やはり世界に違和感を感じており、彼女自身も"世界の世界に対する傀儡"を感じているために他ならないのだろう。 「さぁね、そこは俺にもわかりかねる。ただ世界は流れていっている。それも然るべき方向に。歴史は繰り返すって言うだろう。あれは、文明や進歩とか、そんなものは関係がないんだ。人間そのものの本質や、個体に流れる波及、引き継いでいく染色体、淘汰されていく突然変異や生き残っていく突然変異によって、為されたものが今こうしてあるわけで、淘汰によって負荷されただけのことを進歩と違えてるだけだよ。一見したら同じ行動を択っているように見えるけどね。だが、そこには寧ろ、生物そのものの在り方がある。自然淘汰って言うのは、そのものの方向性を維持している――平行線上に過ぎないんだ。だから、世界がいま存在していること自体に意味なんか無い。そこにあるのは只の"可能性"だ」  誠一は、科学的でも統計的でもはかっていない事を、言い切っていた。  しかし、誠一は不思議な感覚に立たされていた。話していると、言葉が自然と出されてくるような感があったのだ。それは、彼女が訊ねると、自分でも不思議なくらい言葉が次から次へと湧き出す、滴によって少しずつ溜まっていくようだった。 「わたし、私は、夢を見ていいの。私は何をすべきなの。先生、私は"可能性"を、見てみたい」  彼女には、希望と不安が混在した表情が浮かんでいた。 「夢……、か。それは何かを求めていることを言うんだろうな。でも、すべきと言うのは、予め未来が、過去に生きてきた人間の手によって刷り替えられてしまった人の言うことだよ。本来夢は束縛されてはいけないものなんだ。でもそれは、一般論、世界構造によって判断されがちになり、夢の本質にはたどり着いてはいない。  "叶う"と言うのも違うな。そうなってしまうと、それは今にとっては夢ではなくなっている。既成事実という過去になるからだ。だからすべきと言うことに囚われて、答えを探し出そうとする。答えを探さなければならないという風に、考えさせられている」  誠一は一息ついて、 「まぁ、おれもそれに対して日々足掻いてるわけだけども」と、肩を竦めて戯けると、彼女はくすっと笑った。 「俺は何せ、子供に世話掛けてばっかりいる、社会の敵ナンバーワンだからね」  ……思いっきり自分に対して皮肉ったつもりだった。  そしたら何故か立て続けに乾いた笑いがこみ上げてきていた。しかしここで、自分で笑ってしまうのも何か変な気がしたので、表面上は取り繕った。 「先生」  彼女は懇願するような顔で誠一の顔を覗いてきた。 「ん」 「……」  奇妙な間だった。 「ううん、なんでもない」  二人は少しの間だったにも拘わらず、時間というものを感じさせなかった。  そして、瞳だけを見据えて何も言わずに別れた。別れの言葉はいらないと、誠一も彼女も思っていたからだ。きっとまた逢える、と。  もしくは、その希望と同時に、両者とも、同じ不安を抱えずにはいられなかったのかもしれない。  ―― 殺されると言う一抹の不安が、波のように二人に押し寄せていた。  空は暁と群青に溶け込み、ちぎれ雲は光に当たり明暗を一層色濃く出しながら、空と雲は、風と共に秩序に揺れている。そして夜が来るのだろう。そして、朝も。誠一はその色に染まった。  凪いでいた風は、次第にその姿を取り戻していき、砂塵を風が絡ませ、その音は、殺伐としたこの風景を一層引き立てていた。そして空だけがこの答えを知っているかのように、太陽はその姿を徐々に隠していった。  誠一は、もと来た道を戻って帰っていった。  ――見つからない答えを探し出そうとするのは、愚かでしかないのだろうか。いずれにしても、その問いに終止符を打てるのは、ないだろうな。そしてこれからも――……  そんなことを思いながら。    その二日後、十六夜 卵の訃報を聞いた。  ――正直、ショックだった。  会ったばかりで、それに、会話までしていた。  しかし、その彼女は、もういない―― 「――っ、くそっ」  誠一は自分でも気付かない内に悪態を付いていた。  一瞬、脳裏に嫌な予感がフラッシュバックした。 (まさか――いや、そんな筈は、)  だが、誠一はその考えをどうしても振り払うことができなかった。まさしく、彼女の死は自分とリンクしていた。  誠一は誰にも、弦ですらも、相談などできる状態ではなくなっていた。言って、変化をもたらしてしまえば、周りにいる人間は残らず、跡形もなく、あの少年のように処分されるだろう。  ――だが……  誠一は思い立つように自分の部屋の椅子に腰掛け、執筆をし始めた。ペースに乗ると、食事も省みず、ただ書き続けていた。  凪はそんな自分をひどく心配し、作ってくれた食事も、自分の部屋まで持ってきて貰う始末だった。 (言うわけにはいかないんだ――なんとしても)  恐怖は確かにあった。しかし、凪への思いがそれをうち消していた。  誠一は、いつまでも原稿を書き続け、"そのとき"がくるのを虎視眈々と待ち構えていた。覚悟はできていた。しかし、それが誰の意志であろうと、原稿へ書き残すことを諦めるつもりは、誠一には毛頭なかった。 (伝えたいことが――あるんだ)  それはさながら、誠一が唯一残せる遺書のようであった。        三 塔 ――The Tower――  ……だから、ヒトが既成事実を追おうとするのは、何らかに対しての過剰な意思伝達をしようとするが為に、敢えて事実を創ろうとすることだ。確かに、それで安心感、或いは安定感というものは獲られるのだろう。  ……だが困ったことに、それが自分を更に鈍化し、麻痺させていることに、人々は気付いてはいない。                  「秩序の世界」 霧間 誠一   「っはあっ、はあっ」  羽柴聡子は耳を押さえながら、風を切って走っていた。 「秩序はいつか一人でもうすぐ地球のエントロピーは認識する前に得難くエーテルはそしてまた一抹の不安がイデオロギーは音はなく崩壊して無力なバラバラになる事象の全ては狂おしくガナリ声をたてる濁水が奔流のように流れてくるように」  聡子はいつの間にか自分の知らない街まで走ってきていた。だが、無秩序な言葉を大声で発しているのを聞いた大勢多数の人々は、制服姿で走り回っている少女を気が狂っていると思わずにはいられなかった。  商店街から、騒がしい声を聞いて店頭から出てきた店長らしき人は、猛スピードで突っ込んでくる少女に、思わず、その彼女の手を取った。 「ちょっ、ちょっとあんた。大丈夫かい」  見て見ぬ振りをしなかっただけ、この人はいい人だったといえるのかもしれない。だが、運が悪かった。  数秒後には、掴んだ少女の手の中に、自分の、さっきまで包丁で魚を捌いていた手がそこにあるのを見た。食いちぎられたのではなく、無造作にねじ曲げられた無惨な自分の手が其処にあった。 「ぎゃああああっ……っああああっ」  周りにいた人は、ただ愕然とするしかなった。その間にも、彼女は遙か向こうまで走っていった。  走っている最中にも聡子は、自分の手に着いている鉄錆の匂いのした赤く光る液体を見て、徐々に正気を取り戻していった。  服にまでべっとりと付いた赤茶けたそれは、既に一人や二人のものではない事を物語っていた。  壊れる……  助けて……! 「いやああああああああああぁぁぁ」  不意に、ヒュッと音がした。  それは空気を割く様に、この雰囲気に似つかわしくないほど軽快な音だった。 「君はどうして、そんなに急いでいるのかな」  聡子は踵を返すと、黒い影が背景から不自然に浮き立っているのが見えた。  気が付くと手にワイヤーらしき物がぐるぐると巻かれている。  聡子は恐怖のあまり声をあうあうとしか言うことができずに、只目の前のワイヤーに向かって必死の抵抗を続けていた。 「君ををそんな風にしたのは誰かと聞いているんだ」 「……あ、あああ」  恐怖で何もかもがわからなくなっていた。そしていつまでも聡子は、いつまでも、まさしく濁水が奔流のように流れてくる言葉を反芻していた。  そして意識は影が放つ軽快な音と共に、終わった。    「ミッシング・リンク」――、それが、私、十六夜 卵の能力の名前だった。  いつこの名前をつけたのかは思い出せないが、ただこの名前の由来になったものは、ある本に書かれていたのだと思う。  ミッシングリンクの元々の意味は、生物が進化する途中の化石が一切見つからないことを指すのだ。  宇宙に潜むバクテリアは、隕石に乗ってやって来た。だから自ら増殖できるバクテリアが宇宙空間内で生存可能ならば、ウィルスがいる可能性も高いと思われる、と言うことを書いていた。彗星に含まれたウィルスが地表に到達し、元々地球上に存在していた生物に感染して自らのDNA情報を組み込む。そして細胞が突然変異を起こし、新種の生物が生まれた可能性があり、従って中間の化石が存在しないのである。  つまり私が能力を使えば鎖は埋まり、記憶の連鎖が出来るようなったのだ。一方のニューロンと、もう一方のニューロンを繋ぎ、発想の転換、若しくは、想像力とよばれるものを顕現させることだった。  しかし逆に今思えば、この名前は少々皮肉めいてもいた。自分は突然変異を起こすウイルス、ということになるからだ。  私は、既に自分はいつか殺されることを悟っていた。人と違う力を持つ自分を、未だにどうして良いのか分からない。両親に話したとしても、実際に力を使って実証しないことには信じてはもらえないだろう。  だから、今まで沈黙してきたのだ。力も封印してきた。同時に言葉も呑み込んで。  どうして自分にこんな能力があるのかも分からなかった。ただ言えるのは、私はこれまで生きてきた。――それだけだ。  だが悟ってるとはいえ、どこかに殺されたいという期待感も混じっていないとは言えなかった。 「ねぇねぇ、十六夜サンってさー、暗いよねぇ」 「あ、うんうん。何で、って言うぐらい喋ってくんないよね」 「私正直あの人が何考えてんのか分かんないんだけど」 「話しかけてみたいことはみたいけど、趣味違うっぽいし。何かノってくれなさそうって所がありそう」 「最近国際化って言ってるのに、喋らないってホント情けないと思わない」 「あ、おもうおもう」  正論を言っているようで何とも矛盾した会話である。  悪辣な噂の波を更に助長させたいのかどうなのか、彼女たちはあからさまに公衆の面前でそれを語らっていた。  だがそれに対する気遣いという様子をまるで見せることもなく淡々と話は進んでいき、その話は延々と恨み辛みだけで裕に2時間以上経過していた。  私は幾度となくこんな陰口を聞いてきた。確かに言われて腹は立つ。  しかし、彼女たちは"異質なもの"というものに対する嫌悪感しかなかった。嫌悪感とは、自分の嫌いな部分(だがそれも周りの環境によっていろいろと歪曲されてしまうものであるが)。目を背けなければ、いまの環境に対して自分が自分でいられなくなるという恐怖。そこに自らの防衛規制が働いて、他人に対して投影されてしまうというのが、ユング心理学の本をこれまでいろいろと見てきた私に言えることだった。  嫌悪感とは――いわゆる自分の影なのである。  しかし、私が彼女達に怒る義理もないし、言えた口ではないのだ。  私自身も、彼女達に嫌悪感を感じているのだから。  私は幾つか心理学の本を読んでいたが、 「……そこにある種の嫌悪感を君が感じるというのであれば、それは君の"偏り"以外の何者でもない。ただ、好き嫌いを決めれない懊悩とした毎日を送るよりも、確固とした信念と言うものを固執させて進むというのなら、それはそれで楽な道になると言うだけの話だ」  ということを書いていたのが誰だったか、本の後ろの方に霧間誠一と書いていた。  これは、私が一番好きな作家さんだった。ある種の経験を積んでいないと分からないであろうこの文章は、卵にとってとても魅力的なものだった。 「まぁったく、あいつ等、みんなに聞かせたいのかね」  隣の席にいたクラスメート、もとい幼馴染みの泉憧皓介が恰もみんなに聞こえるように、大きい声で私に話しかけてきた。 「仕方ないわよ。私が友達になろうとすら思っていないんだからね。嫌悪感が湧き起こるのは人にはどうすることもできない枷みたいなものよ」  皓介は、私に何の頓着もなく素直に私に話しかけようとしてくれる唯一の友達だったと言えるのかもしれない。そして私が返事ができるのもこの浩介だけだった。 「気にすんなよな」 「気にしてないわよ」  無表情で私は答えた。きっとこの答え方は可愛くない女の子ナンバーワンに輝けるかもしれない。 「まぁ、そーだなぁ」  皓介は机に乗せていた躰を、反動で飛び降りながら言った。 「普通でないことの苦しみなのかもな。普遍化したものが第一とされる、この世の中じゃあな」  その時の皓介の背中からは、何を考えているかは読みとることはできなかった。  皓介とは、いつまでも幼馴染みだったとしか言いようがない。しかし、私の大事にするべき友でもあった。だが私の孤独が消えたのかというとそうでもなく、結局私は、一番大事にすべき人を容易く蔑ろにし、看過していたのだ。    小学3年だった皓介は、下校途中私に何の屈託もなく話しかけてきた。今思えばそれは、彼にとって話しかけるための手段の一つだったのだろうが、当時の私はそれを否定的に受け止めていた。 「なぁ卵、どうしてお前って何も喋らないんだ」  卵はふと足を止めたが、後ろから追いかけてくる人物を一瞥すると又歩き出した。 「おい、待てったら」  皓介は両腕を開いて、いかにも子供らしく"とうせんぼ"というかたちを取った。 「何」  卵は消え入りそうな声で一言だけ言って、皓介の両脇から通り抜けようとした時、彼はタイミング良く擦り抜けようとする卵の腕を掴んだ。 「お前友達いないのか、なんで。だってみんな教室で楽しく喋ったりしてるのにさ、お前だけぽつんと、それも何のためらいもないように机に座ってるんだからさ。調子狂うんだよな。みんなはみんなで話しかけようともしないし。変なんだよなー何か」 「気にしなかったらいいんじゃない」  卵は抑揚のない声でそれだけ言うと、皓介のゆるんだ手から腕を放し、無表情でまた歩き出した。  もう追いかけては来ないだろう。卵は既にもう、経験からそれを学習してしまっているものだったから、それだけは確信できるものだと思っていた。  皓介は下を向いたまま項垂れていた。余程、卵の小学生からは想像も付かない脱力感を感じさせる素っ気なさに、どうしようもないと思ったのだろう。 「……ばっかやろおおおお」  突然、近所中に響き渡るぐらいの声が卵の耳に入り、卵は吃驚して後ろをむいた。  浩介は、泣いていた。  卵も、自分が予想とは全く正反対の行動をした皓介に対して、自分でも想像できないほど狼狽えているのに気付いた。 「何でそう誰にも話そうとしないんだ。1人で、背負い込もうとしないで、オレでも誰でも良いから、話せばいいじゃないか」  皓介は自分の行動が完璧なまでに否定されたことが、ひどく口惜しかっただけなのかもしれない。しかし卵にとって、こんなに率直に気持ちをぶつけてきた人間に出会ったのは、初めてだったのだ。  卵はその場に蹲ってハンカチをポケットから取り出すと、皓介の目の前にそれを持ってきた。 「貸してあげるから、涙を止めて」 「んだよ。しゃべれるんじゃねぇかよ。……へへっ、やったぁ。おれの勝ち」  皓介は鼻水を垂らしながらにかっと笑った。  素直な気持ちを言葉に顕わしただけだったのだろうが、卵にはそれが更に苛立ちを募らせる結果となり、そのあと何も言わず早々にその場から立ち去った。  だが、置いていった皓介のことが、卵は忘れることが出来なかった。  ……あの時の私は能力を悟られまいとするために、必死になって喋ることをしなかった。いつの間にかそれは固着し、他人の目にも無口な同級生と見られるようになった。  人間というものは不思議なもので、周囲にある印象を与えると、実際その印象通りに振る舞おうとする。或いは、周りがそうさせるのか。  私も、話すまいとした不器用とも言える行動が、その無口さを更に助長させてしまっていたのだ。 「なぁ、誰かに話したか」  皓介は、あんな事があっても、未だ性懲りもなく卵につき纏ってきた。 「……誰にもしてないわよ」 「な、なんで」 「世界には受け入れ難い能力があるの。だから話したらきっとその人に災いを呼ぶ。貴方も死にたくなかったら話しかけない事ね」 「わ……ざわい」  卵は小学生とは思えないほどの弁舌を披露したが、皓介にはまだ分からない言葉も混じっていて、また最初から話せばならないようだった。 「他の人が持っていないものを私は持ってしまったから、人はどうせ私を受け入れてはくれないのよ」  返事もできないぐらいの科白を言って、完膚無きまでに説き伏せたと思った。だが、皓介の返事は、卵が想像したものとは全く違っていた。 「そんなの関係ねえよ。だってお前自身が、自分を受け入れてないんじゃねえか」  卵は、彼が言ったことにハッとした。  だけど、関係ないことはない。そう思ったが、皓介が的を突いた言い方をしたことに、少し見直していた。 「そう、だね……」  皓介は、卵が初めて自分に肯定的な返事をしたことに、喜びの色を隠さなかった。  今度は「勝ち」とは、言わなかった。   「ここ座ってもいい」 「あ、う、うん」  クラスのグループ分けをするときである。  私はこのグループ分けが嫌いだった。輪に入れと言われても、普段からグループというものをつくっていない私にとってそれは――地獄というには些か大袈裟だが――疎外感だった。いつもは意識していない孤独も、こういう場面で発揮するのは皮肉なことである。  だが今回はそうはならなかった。まぁ多少の怪訝はあったものの、それは私にとって嬉しい、と言えるものだったのかもしれない。  声をかけてきたのは、羽柴聡子。私はクラス全体の、人に対する評価というものに疎いものなのだが、羽柴聡子はクラス内でも私と同じように、周りと隔絶された環境にいる人物だという印象を、私は持っていた。  何か喋らなきゃと思いつつも、第一声が口を衝いて出てこないのはこれはもう性としか言いようがなかった。溜め息を吐きそうになったとき、 「一緒に帰ろっか」  先に沈黙を破ったのは聡子だった。  放課後、聡子と私は変える方向が殆ど同じだったため、時間には事欠かなかった。 「そっか」 「うん、大体は、私は一人暮らしだったと言っても、良いのかもしれないね」  思うように話せない。もどかしい。そんな自分が恥ずかしい。そんな色んな気持ちがいっぺんに出てきた所為で、私の躰はカチカチに固まっていた。人と面と向かって話すことも滅多になかったからなのか、私はあからさまに動揺していた。 「ねぇ」 「えっ、なっなに」  思いっきり動揺が見て取られた。聡子はくすくす笑っているが、もしかしたら内心傷付いているのかもしれない。 「あのね、私、友達に嫌われてるかもしれないんだ」  この時ばかりは、訥々としか返事ができない自分を恨んだ。 「ごめん。こんな話して。十六夜さんだってきっと辛いのにね」 「ううん、そんなこと無い」  私はいつの間にか、聡子に向かって微笑んでいた。    私達は先程買ってきたバーガーとポテトを袋から取り出すと、公園の椅子に腰掛けて食べた。私はこういうジャンクフードを食べたことがない辺り、普通の女子高生とはまたかけ離れている気がした。  商店街の八百屋で買っているので大量生産系も買うには敬遠するし、こういう牛肉も好きな方ではなかった。だから咀嚼して嚥下するには躊躇いがあったのだが、折角聡子が、話が長くなるからそこの公園でちょっとつき合ってと頼んで奢ってくれたものだし、食べないわけにもいかなかった。 「私達の高校はやっぱり変なんだよ」  私達の通っている深陽学園は、実際に変だとも言える有名な人が沢山いるようだった。 「変、か」 「十六夜さんになら話しても良いと思ったのよ!」 聡子は私の手を握り返してきた。しかしその手は汗ばみ、微かに震えていた。 「十六夜さんはもう気付いてるかもしれない」  聡子はくぐもった。 「ごめん十六夜さん」 「――え」  一瞬、何を言っているのか分からなかった。  しかし聡子は、握っていた掌を腕に持ち替え、さっきよりもきつく私の腕を掴んできた。私は訳の分からない聡子の行動に当惑し、手を離そうとしたがひどく力を込められているため抜けきれない。   すると、聡子は私に顔を近づけてきた。反射的によけようとするが、手を掴まれている所為かそのまま椅子に倒れ込むような体勢になってしまった。  頭が、回転しない軋んだ歯車のようになっていて上手く回ってくれない。  一体、これは何なの。  聡子は尚も顔を近づけてきた。  声が出なかった。今何が起こっているのかという疑問だけが堂々巡りして、自分の躰も動くどころではない。  彼女の唇が私の首筋に当たったとき、やっと私は反射動作として腕に力が籠もり、咄嗟に彼女の腕を、彼女の躰ごと振り解いた。  彼女はその反動で椅子から転げ落ちる。  私の頭は回転しはじめたものの、アドレナリンが分泌され全身から汗がじわりと浮き出てきた。 「な、なに」  やっと出た言葉がそれだったが、聡子は俄に駆け出し、這うようにして公園から出ていってしまった。残ったのは、椅子の上の食べれそうにないまでに潰れていた食べかけのハンバーガーとポテトがあるだけだった。 「――なんなのよ」  嵐が去った後で、私はやっと全身が身震いするほどの恐怖を覚えたが、やっぱり我に返っても、いつまでも頭はぐるぐるして明確な思考には辿り着けなかった。    失敗した。歩道を走り抜けながらそう聡子は思っていた。  突っ切って走るにしても、彼女の体力からはそう遠く行けるわけでもなく、街路樹の支え木に手をつくと、酸素を取り込もうと呼吸をその場で何回もした。  もう一度走り出そうとしたとき全身に、瞼を閉じていたためか何かにぶつかった感覚だけがした。  しかし電柱に衝突したにしては、さほど痛くはない。とすると、人に当たったのだと聡子は推測し、おそるおそる目を開けた。  目を向けた先には真っ黒い布しか見えなかったが、それは男子のガクランだと直ぐに分かり、聡子より身長が高いのだろう。彼女は上目遣いにその目の前の人を覗き込んだ。  聡子は驚愕した。  目を向けた先に見えたのは殺意が垣間見えるぐらいの形相だった。太陽の逆光に照らされて、それはひどく不気味に聡子の目に映り、手足が痺れるように、彼女からは全身の気が抜け、既に動かなくなっていた。  目の前にいる人物は暗澹に満ちた表情で、緩慢な動作で聡子の頭頂に手を振り翳すと、その間に、何かに摩滅したような青白い光が迸った。 「あ、あ、あああああああ」  目の前の彼は、笑みさえ浮かべていた。 「面白いな……こうなるのか」  聡子はそれを、未だ正常だった意識の端で聞き取った気がしていた。しかし彼女は彼と同じ学校であったし、同じクラスであったし、勿論彼女は、彼を知っていたのだ。    ――羽柴が入院したそうだ――  朝、教室に入ってきた担任が放った最初の言葉がそれだった。 「原因は今調べているが、みんなは暫くの間向こうの病院に、――心配だろうが、訊ねに行かないようにしてくれ。以上だ……」  先生自身も当惑した表情をしながら、私達に事の詳細も知らせずに教室を出ていった。  私の担任は、いわゆるサラリーマン教師と言えるかもしれない。多分、酷く陰湿な方法で虐められている子はきっと沢山居るのだと思う。ただ、気付かないのか無関心なのか、それを言及する先生はこの高校には居やしないのだ。  子供が怖いのだろうか、それもあるかもしれない。  だが理由はどうあれ、教師不信任案を提出せざるを得なくさせている要因の最もはきっとこれなのだ。  意味深な先生の言葉でクラス内は少しずつざわつきはじめた。 (あの時――何があったの)  きっと姿を消したあの後、何かがあったんだ。  何故だかは分からない。それなのに、私の背中からは言い知れない戦慄が走った。  あの時、冷静でいたとはいえ、自分の能力が無意識のうちに作動していなかったとは言えないからだった。  これまで卵が能力を抑止してきたのは、他人に危害を与えないためだったのだ。 (私の所為なの)  そう思うと、息が詰まりそうだった。  横にいる皓介の席に目を向けると、下を向いて、何かブツブツと殆ど聞こえないぐらいの声で呟いていた。  その時だった。  皓介の目つきが鋭いものに変わり、ギラリと何かに飢えたような視線を放っていたのを見たのは。  私は直ぐさま教卓の方に視線を移したので、狼狽した自分を皓介に悟られずに済んだのかもしれない。  私の心臓は、激しく脈を打っていた。                        四 月 ――Moon――        ……もちろん、人がどこまで遺伝子的に、どこまで環境によって作用されているのかを論じ合うことは出来る。そして又、そこには何かもっと別のものがあるとも主張できる。しかし、この何かがどんなカタチをとるのか想像したり、はっきりさせようとすると、そんなことは不可能だと分かるはずだ。遺伝子にも環境にもない何かの力となると私達が知覚可能な物理世界のリアリティを越えているからだ。それは科学の軌道外れ――ディスコース――の彼方にある。……しかしそれは、その「何か」が存在しないということを意味するのではない。           ロバート・ライト「モラル・アニマル」      放課後の教室の中で、話し声が聞こえた。放課後は昼の教室とはまた違う表情をしている。それは逢魔が刻とも言える時刻なのである。 「聡子どうしたんだろ」 「ほんっと。でもあいつ、根暗だからどうなってもおかしくはないんじゃないの。ああ……もうムカつく!」  彼女たちの1人は、何か訳の分からない苛立ちを抑えきれず、もう1人の方に声を荒げて八つ当たりをした。 「入院って言ってたのよ、それも面会謝絶」 「でもそれって誰が」  そこまで言った瞬間、声は教室のドアが勢いよく開けられる音によって遮られた。  そしてその向こうに立っていたのは、  泉憧。  意外な人物でいて、それも唐突だった。思いだにしなかった訪問に、3人は正直言って虚を突かれた。  しかし3人のうちの1人は、冷や汗が浮き、今にも逃げ出したいかのように、小刻みに躰を顫わせている。  彼は更に近づいてきた。それは、感情を全く見せない、静かに恐怖を齎す機械のようだった。しかし一つだけ見せる表情とすれば、この場にそぐわない、微笑み。 「何なの泉憧」  恐怖している姿を見せまいと必死に気丈さを見せる姿も、今の彼にとっては全く関係がなかった。  彼は尚も、ゆっくりとコツコツと音を立て、薄笑いを浮かべながらやって来る。 「だんまりしないでくれる」  いつも教室で見る彼とは違う、という恐怖に、狼狽して叫んだ。  しかしもう1人はいつの間にか廊下側に出るドアの前まで来ていた。逃げ切れる、そう思った瞬間、横からドアと自分の間を挟んで入ってくるものがあった。  それは自分の学校と同じ制服を着た男子だ、ということまでは認識できたが、その目の前の手はいきなり彼女の顳を掴んできた。  電撃が走ったように激しく痙攣したかと思うと、すぐに、目の前にいた彼は手を広げて放し、その儘彼女は崩れ落ちた。  絶命していたのだ。 「ひっ、ひいっ」  もう1人は何が何だか分からず、背中を見せて這い蹲って逃げ出していた。今度は彼はその女の額を鷲掴みにすると、その女は声を張り上げて藻掻いた。数秒後にはプスプスと音を立てながら、地面にまるで鈍器のであるかようにゴトッと転がった。 「そうかお前等か」  窓際に来ていた泉憧はどうやって、いつの間に廊下側のドアの所まで言ったのだろう。  最後に残った彼女は、今目の前にある恐怖を拭い去りたかった。逃げ出したい衝動に駆られるが、その恐怖が凌駕して足が竦んでしまっている。  もう既に彼は2人も人を殺しているのだ。 「前からムカついてたんだよなぁ」  彼は思い出すように、彼女とは別の方向を向いて独り言のように喋っていた。 「お前等には」  彼女は憎悪の笑みを浮かべた彼が、目の前に来ているのに気付いていなかった。気が付いたときには、彼は彼女の顎を掴み、躰を上に持ち上げて宙吊りにしていた。 「あっ……あ、あんた何」  声が上擦って声にならなかった。 「なんなのおっ」  力の限り叫んでいた。しかし数秒立っても、この教室を覗きに来るものは一向に来ない。 「最近、だ。能力が俺にあると分かったのは……そうだ」  掴まれた手を外そうとするが、その手は鍵が掛かったようにビクともしなかった。 「卵の」  突然出てきた名前に、肩をビクッと顫わせる。 「笑顔を奪ったのはお前か……何奴なんだ」  不意に、彼女は彼と視線が合った。  その暗く淀んだ憎悪――若しくは激しい絶望感が、彼女を更に恐怖に駆り立てた。  その目は既に、普通の高校生の持つ目ではなくなっていた。 「失敗だったなぁ……、羽柴は。脳を活性化しすぎた」  その言葉で彼女は、聡子はこの変わってしまった彼によって殺されかけたのだということを確信した。しかし、自分が殺されようとしている時点で、確信する前から既に分かっていたことだったのだ。 「あ、んた、が聡、子を」  襟を掴まれた儘なので、次第に呼吸ができなくなっていた。 「卵は俺が、護るんだからな」  彼女は、この恐怖が死によって終焉を迎えることを、この時茫然自失してしまった頭の中に浮かべていた。彼はゆっくりと、左手を目の前にもっていく。それは、彼女には映画のスローモーションのように、明瞭に映し出されていた。その眸に映し出されていたのは最後まで、彼は微笑んでいたということだった。    翌朝、学校には警察関係の人たちによって校内は騒然とし、入り乱れていた。  私は何か、そう、漠然としてはいるがそれが不安という、負の感情であると感じるのを抑えることが出来なかった。  往々にして校門を掻き分けていくパトカーや人集りに追い立てられ、校内にはいることすらままならなかった。  喧噪の中、人の間をすり抜けて、やっとの事で校内に入ったら、少数ではあったが生徒が廊下を歩いているのを見かけ、やっと私は校舎の中を安心して歩けるようになった。  あの時感じた不安は、嬉しくないことに的中した。  騒ぎの中心は、自分のクラスであったのだ。 「あ、あの」  警察の人に事情を何とかして聞き出そうとしたが、向こうにはこちらの声は耳に入っていないようだ。 「あの」  もう一回り大きい声を出して、やっとその中の1人が私に気付いた。 「ここは立入禁止にしている筈だ。どうやって入った。ったく」  そう言ってその人は廊下を見渡したが、私以外にも生徒が中に入っていることがやっと分かったように溜息を吐いて、事情を話すようになったようだ。 「あのな、本当は言っちゃいけないし、私達も正直話したくはないん」  前置きのように勿体ぶって話していたので、私はもうすぐで急かすところだった。だがその次に出た言葉に、私のそんな気持ちは消えて無くなった。 「女の子が3人、死んでるんだよ」    後で来た第三者に、私達は校内から追い出され、教室も使う充てもなくなった先生達は、校長の指令の降らないまま、途方に暮れていた。  生徒の中で、勝手に家に帰るものもいて、先生はその人達を連れ戻すのに大騒ぎをして、一応と言って点呼を取っていたが、暫く私はその場で呆然とし、立ちつくしていた。  ふと見慣れた人影が私の視界に入った。皓介は一足遅れて学校にやってきていた。 「――あ」  声を掛けようとして、私は笑いかけることが出来なかった。  皓介は、全てを知っているかの表情で、笑っていたからだった。  そのまま皓介はザワザワと騒ぐ喧噪もお構いなしに、冷然とした微笑を浮かべながら私の前を通り過ぎた。 「待って!」  私は口を衝いてそう叫んでいた。だが周りは私達に気を止めることもなくいつまでも騒いでいる。 「何だ」  皓介は顔だけを私に向けた。 「もし貴方がそうなら、私が言おうとしていていることが分かるはずよ……」  空間がこの場だけ切り取られたかのように、静まり返っている。 「そうね、みんなに伝えて置いて。"犯人は此処にいる"って。そしたら、この騒ぎの本人はきっと尻尾を出す筈だから」  これは賭だった。違うのであれば、何の疑いもなくこの事を皆に伝えるだろう。だがもしそうなら――  ぴんと弦のように張りつめた膠着状態が元に戻り、喧噪の声がまた私の耳に触る。  皓介は何も言わず、そのままその喧噪の中へと紛れ込んでいった。    ビルとビルの谷間へと吹き抜ける風がひどく寒々しい。5月だというのに。卵は屋上のフェンスに凭れ掛かり、彼を待っていた。信じたくはない。その想いだけが、今の卵の想念を支配していた。  隣からカタンと音がして、卵はその音がする方に顔を向けた。 「――よう、卵」  いつの間にか、彼は自分の数メートル先まで来ていた。私は、ずっとドアの方を見ていたので、人の出入りは必ず分かる筈なのだ。しかし彼は、それを可能にしてしまう何かを、もう手に入れてしまっていたのだ。  ……希望は途絶えた。  数分間、2人は棒立ちになったままだった。一向に微動だにしない。  その間にも、南西から来た雷雲は、内奥に潜む音を立てながらこちらに向かってきている。  私の頬には水滴が墜ちてきた。それが開始の合図であるかのように驟雨は私達に向かって、呻り声を上げた。 「――どうして」  近付いてくるのは、雨音。 「どうしてぇっ!」  その時の皓介は、口許を上につり上げていたが、私には今にも消えてしまいそうな、そんな微笑みに似ていた。 「さすがオレの幼馴染みだよ。他の人間なら今のオレを見ても無表情で通り過ぎて行くだけだろうからな」  空を見上げれば、涙。    佐々木政則――モ・マーダーは誠一のことを調べに近くの公園で休んでいた。  そこでかんじたのは、力と力の拮抗である波動だった。  彼は座っていた椅子から飛び退き、方向を掴むと、直ぐ さまその方向に向かって走り出した。 (まさかMPLSか)  確かにこれ程に強い波動は、能力者にしか出来ないぐらいのものだ。  能力的に近似していて、力も同等の時に生ずる拮抗反応であることに、モ・マーダーは少し逡巡した。もしその間に割り入ろうものなら、こちらがダメージを負うのは必至だからだ。  自分には先ず、中枢からの報告によって"暗殺"をその都度実行せねばならないというものがあった。 (力の拮抗――と言うことは2人以上か)  暗殺という仕事を与えられているモ・マーダーでも、MPLS2人相手では対処しきれない可能性があった。ましてや相手の能力すらも分かっていないときは尚更である。だからこそ、暗殺というものは、危険分子に対処するには最高の手段となる。  辿り着いた先――そこは「深陽学園」と校門に彫り込んであった。  彼は、放課後になり、校舎の中でも人通りの少ない廊下を通って階段を駈け昇った。 (殺すか――)  階段がこれ以上ないのを見ると、彼は呼吸をできるだけ最小限に抑え、気配を消した。  最上階のそこには、2人の少年と少女が対峙していた。  彼は胸元から携帯電話を取り出し、それを耳元に当てると、機械的な女の声が聞こえてきた。 「中枢です。報告を」 「MU371ENにてMPLS2名発見。直ちに行動するか否か判断を」 「そちらの状況を具に報告して下さい。判断が下り次第そちらに報告します」 「了解……」  電源が向こうから切れると、また胸元へしまった。  本当にこれで良いんだろうか。  今一度、昔自分が殺した青年の言葉を、佐々木政則は脳裏に浮かべていた。    ――その横で、傍観するものがまた1人。  その者は全身を覆うほどの外套を身に纏い、奇妙な鎖の付いた帽子を、目が隠れるまで被っていた。 「そうか、成程。二人とも、か。だがもう1人の方は、自分が相手に齎してしまった禍には気付いていまい。相手への気持ちが、相手が予め持っていた可能性に罅を入れてしまうなんて皮肉なことだ」  そう言うと、その影は周りに溶け込み、やがて、姿をその場から消していった。    雨は未だ降っている。上を見上げると、時折雲間から稲妻が光るのが見えた。 「オレと、卵、おまえは対立した能力、と言うわけだ」  私はただ茫然とするしかなかった。 「なんで――」 「さあな、オレにも分かんねぇ」  皓介は憔悴しきった顔をしていた。 「でもな、卵。オレはこの能力に少し感謝してるんだ」 「……」 「お前と同等になれたからだよ」  それは遠回しな告白だった。しかしそんなことは、私は今まで思いだにもしなかった事なのだ。それは余りにも唐突で、私は顔を上げて茫然と彼を見つめる。 「お前は、オレがどうしてあいつらを殺したのか知りたいんだろ」 「ええ」  皓介の問いは的を得ていた。それは私が最も疑問に思うことだった。なぜなら彼が聡子の精神を破壊し、あの3人をも殺す理由など、私には皆目見当もつかなかったからだ。 「あいつらがお前を虐げているのを楽しんでいたからだ」  皓介は即答した。 「そ、そんな理由で――」  私は愕然とした。そして、これまで自分が付き合ってきた皓介と照らし合わせてみても、今の彼は、今まで私の見たこともない一面を私に見せていた。 「あいつらに生きる権利があるか。お前は強いからきっと分かんないんだろうがな、深陽学園であいつらは、人を自殺に追い込むぐらいにまで追いつめていたっていうんだからな!」  皓介の目に、憎悪が宿った。 「――そんな」  私は躰が地に浮いた気がして、頭がクラクラしてきた。  今、彼は何と言った。 「卵、これは粛正だよ」  皓介はヒタヒタと私の方に近付いてくる。私はその度に後ずさりをする。 「本能の強い動物は突然変異を起こした者や、仲間全体の秩序を乱す者には手加減無く排除するんだとよ。寧ろ人間の方がおかしいんだ、そうだろ。偏った倫理観や道徳観で人を殺してはいけないとか決めつけるのは、理屈をこじつけてるに過ぎない」  皓介は急に立ち止まった。それと同時に私も止まる。 「卵、お前が決めてくれ。オレが粛正されるに相応しいかどうかを」  私は我に返った。  これまで、皓介が言ってきた意味は何だった。それは、全て皓介自身に言ってるものではなかったのか。そう、突然変異を起こした者や、世界の秩序を乱しているのは、他でもない、私達なのだから……。 「分かってる。それしか、道は残されていないもの」  いや、だからこそ私達はそれが赦されるような人間世界を冀わねばならないのだろうか。私はそんなことを、漠然と考えていた。  私の頬には、水滴が止めどなく流れている。それは雨の所為なのだろうか。  それとも――……  両者の間に、暗がりの中でないと見えない青白い火花が散る。  私達は、同時に地を蹴った。  私は、記憶を繋ぐ。彼は、記憶を離す。まるで正反対のようで、そして同じでもある。  一瞬の反作用と、一瞬の共鳴。  勝利を制したのは――……    雲間に、光が射し込んできた。積乱雲は去り、代わりに雨上がりの風景になっている。 「――あ」  ゆっくりと瞳孔が開かれる。横に首を傾けると、最初私がいた場所で、私が目覚めるのを待つように皓介がフェンスに身を寄せていた。 (生きてる、のね)  私はあの時死を覚悟していた。  何よりスピードが違う。力の強度も違った。私には戦闘向けの能力はもとより無かった。それが幸いしてか、今の今まで自分から告白して、それを信じる人が現れる以外に自分の能力が露見する心配など無かった。だが皓介は違った。正反対と銘打ってるものの、戦闘能力に於いては彼の方が格段に超越していた。だから、敵うはずもないことだということが分かっていた。だが、尚も私は、戦いを引き受けた。  皓介は、私が殺せるという一歩手前で止めた。意識が薄れ行く中で焼き付いた彼の寂しそうな顔だけが、私の脳裏から離れない。 「目が覚めたのか」  彼はフェンスに凭れながら話しかけてきた。 「なんで――殺さなかったの」  起きあがると、能力を急激に使った所為か、体中が釘を打たれたように痛い。 「どうやら、オレは鬼にはなりきれなかったらしい」  皓介は肩を竦めながら、いつものふざけた調子で言った。 「結局、オレは枠からはみ出すことすら出来なかったわけだ」  彼は背伸びでもするように腕を伸ばすと、頭の後ろに腕を組みながらフェンスに沿って歩き出した。 「いや、それすらも、もしかしたら」  皓介の顔に自嘲気味の笑みが浮かぶ。 「オレは自分に殺された」  彼はそのまま私が居る位置とは反対の方向に歩いていった。 「普通でいようとしたかったわけじゃないんだ……。普通にしか、なれなかった。  やっぱり俺達は何処まで行っても正反対みたいだな、卵」  彼はそう言うと、踵を返して私の方を向いた。 「流されて、何か訳の分からないものに操られ、自分の意志で状況を打開しようともせず成すが儘に淘汰されて。ついには自分の可能性とやらによって、やっぱり潰れる羽目になっちまったんだな」  ぎし……と、皓介の後ろから聞こえた。なぜだか私は息を呑んだ。何か訳の分からない焦燥が私の心拍数を上げるが、足が全くと言っていいほど動かず、掴もうとしても掴めない空気のように、私の手は空を切るだけだった。  次第に、彼の背中は、その古ぼけたフェンスに全体重がかかった。 「お前は、なるな」  皓介はフェンスを押し倒す勢いで空中に向けて飛び退いた。  彼の躰はぐらりとバランスを崩し、辛うじて地面に繋ぎ止められていた古いフェンスは、彼の躰ごと墜ちる。  彼は笑いながら私の視界から姿を消していった。それはさながら、この世の柵の何もかもから開放されたような……、そんな笑顔だった。 「こ、う……すけ……」  どうしてこんな事になったのだろう  分からない、分からない……。  私の中の全ての感情は、渦に飲み込まれて混ざり合う奇妙な感覚に立たされていた。  "どうして彼は、聡子を殺そうとした"そんな疑問が泡沫のように後から浮いては消え、浮いては消え、永遠に続く迷宮に入り組んだ気がした。  その疑問が確信に結びつくようなものを、もう、私は失ってしまったのだ。                  五 死神 ――The God Of Deth――      科学は知性の所産であり、知性はより高等な脳の機能であり、脳の高等な機能は人間の脳の発達の所産であり、脳の発達は遺伝子によって決定されるプログラムの所産であり、それらは全て進化と自然淘汰の所産である。科学はつまり、理解したいという本能的な衝動を含む人間の本性が直接的に現れたものであり、これこそ進化に置ける人間の成功をもたらした源泉である。望むと望まざるとにかかわらず、私たちには、自分たちの遺産をいますぐ手放し、世界に探求の目を向けたり疑問を持つことをやめ、創意工夫をこらして問題を解決することを放棄することなど、おそらく不可能なのである。それが可能になるのは、ヒトという種が終わりを迎えたときである。万が一、科学が基で私達が破滅することになったとしたら、それはヒトと言う種に欠陥があったからであり、致命的な突然変異の犠牲になったにすぎない。        クリスチャン・ド・デューブ「生命の塵」      (植田充美訳)      私は、恋すら知らなかった。もし、太宰治の言うように、この世に生きていることが恋と革命のためであるならば、私はその両者とも成し遂げていないことになる。  ……私は、人を好きになってはいけないと、ずっと思っていた。  もし、切なく愛おしくなる人が出来たとしても、それを認めてしまったら……きっと私は、いつも相手への愛憎の感情をする事に、罪の意識を感じ、それに苛まれ、宙に浮いたままの安定感のない底無しの海の上に立つような感覚を常に感じ、発狂し、感情を制御することすら儘ならなくなるだろう。  怖かったのだ。恒ならぬ自分を身近に感じることが。  私は、皓介と同罪だ――  どうやってここまで来たのだろう。片足を引き擦りながら、私は、来たこともない路地に出ていた。  もうどうでもいいと、半分は思っていたのかも知れない。私はそのまま、何のあてもなく、道なりに歩き続けた。  ふと、通り過ぎた一軒の家が、私の目を惹いた。そこのプレートには、こう書かれていた。 「霧間 誠一 霧間 凪」 (まさか、まさか――よね)  期待の色を隠せなかった。いつも憧れていた人の名字がそこに書かれていたからだ。 (見て確かめたいけど、でも間違ってたらどうしよう) 「あんた、私の家の前で何やってんの」  私は驚いて、何かをしていた訳でもないのに、先程の期待感もあって気が動転したまま横に現れた少女の方を向いてしまった。  少女は暫く訝しんで私を見ていたが、相槌を打って納得したように私に話しかけてきた。 「ああそっか、あんた親父のファンなんだね、きっと」  美人に反比例しているのかいないのか、その口調はひどくぶっきらぼうだった。 「あ、あの。霧間さんは留守なの」 「一応、オレも霧間なんだけど」  小さな魔女のように、悪戯っぽく少女は笑った。  驚きのあまり声が出ない。そんな私の様子を見てか、彼女は私の顔を下から覗き込んで聞いてきた。 「あんた、どうしたいの」  彼女のこの聞き方は、私の思惑を既に読みとって、その気持ちを汲んで聞いているような口振りだった。  いや、もう気付かれてるのだろう。私が今も絶え間ない昏い絶望感に打ち拉がれていることに。  空は赤く染まってきている。  地平線に向かう太陽や月は、いつだって紅い。  月は周りの闇から浮き出ていて不気味なのに、太陽は周囲の雲と溶け込み霞んでいて儚く感じる。  この地平線に身を委ねてゆく、"斜陽"のように。 「意志を、託したいから」  彼女は、私をジッと私の目を見ている。その私を見る目は、とても強い意志をしていると思わせる凄みがあった。 「――ふう」  彼女はそう溜息を吐くと、家の中に入っていき、そしてまた紙と鉛筆を持って駆け足で出てきた。そうして小学生のように辿々しい文字で書くと、私に即座に手渡した。  その紙にはどこかの住所が書かれていた。 「これは」 「それ、きっと親父が居るんだと思う」  照れているのか、彼女は鼻の頭をぽりぽりと掻いていた。 「まぁ、オレの親父は変なヤツだけど、多分あんたの意志は、受け継いでくれるんじゃないかな」  その時の彼女は、無邪気な笑顔をしていた。私はとうの昔から忘れていたのものだったが、私は同時に安堵も覚えていた。  近所の人に聞きながら、私はその紙に書かれた住所の場所へと向かった。  思わず駆け足になる。  人伝で聞いたところによると、そこは廃屋と言うことだった。何故霧間さんがそんな所に行ってるのかは分からないが、とにかくその場所へと、さっきより早足で歩いていた。    モ・マーダーは卵が帰ってくるのを息を潜めて待っていた。 「中枢から最終決定が下りました。抹殺せよとのことです」  そう勅令が下ったのはひどく前のように感じる。だが実際はそうさほど時間も経ってないだろう。  どんなに周りを見回しても、この家は殺風景という印象しか持てない。この家には家族というものがないのだろうかと、モ・マーダーは首を傾げる。殆どの家庭なら4・5人ぐらいの荷物が有っても良いはずなのに、ここにはあの少女の1人分しかないようだった。  これから起こす行動に、余計な感傷は必要ないのだ。そう自分に言い聞かせて、再びその少女を待つことにした。  外から、この家に向かって歩いてくる足音がする。モ・マーダーは、備え持っていた鋭い聴覚でそれを捉えた、そしてドアが軋む音がして、少女は声もなく部屋の中に入ってきた。 (データーどおりか)  そう思ってる間にも、その少女は、隠れているモ・マーダーの所まで接近していた。  数メートルまで迫ったときだった。  彼は一瞬で仕留める攻撃を繰り出した。掌にエネルギーを集め、衝撃波に変換する――  その時、彼には信じられないことが目の前で起こった。  彼女は、既にモ・マーダーが居ることを分かっていたように、視線は彼の方を確実に捉えていた。それを知っていて、甘んじて彼女は最初の攻撃を受け入れたのだ。  それは、本当に一瞬であった。  モ・マーダーは暫く躊躇したが、すぐに体勢を立て直した。  その間に、彼女は前屈みに倒れ込んで蹲っていた。  内臓出血を起こし、血が口から出ている。モ・マーダーはもう一度とどめを刺そうと、拳を握った。  すると彼女は、ゆっくりと起きあがった。その眸には、恐怖を見せた様子はない。寧ろ落ち着きを払っている。  そんな彼女を見てモ・マーダーは眉間に皺を寄せた。警戒したのである。異常に落ち着いているという者ほど何かを覚悟しているという事は、これまでの経験からも言えることだった。 (またあの少年、か――)  モ・マーダーは忌々しげに舌を鳴らした。そこには、彼には意識はしていないぐらいの自らへの懐疑に満ちた表情があった。  (能力から推測してもそれが攻撃系統のものではないことは判っている。――だが何故、なぜこんなに落ち着いてられるんだ。もうすぐ自分が殺されると言うんだぞ)  ジリジリと間合いを詰め、自らの隙をつくらないようにしながら、答えのでない問いを繰り返し問い直していた。  そして、指を少し痙攣させたかと思うと、常人が見れば、残像として残るスピードで、刹那にして彼女の懐に潜り込んだ。    私はまだ、自分に意識があることに気付いた。  指はもう動かせなくなっている。  鉄錆の匂いが鼻を突いた。  痛みは既にない。意識は朧気ながら、視界は徐々に光を失っていく。 「先生……」  出ないと思っていた声が出た。 「私は……淘汰されてしまったけど、"意志"は、預けたから、だから……」  声は徐々に掠れていった。  突如、閑散としたこの家の中に染み込んでいくような、そんな口笛の音色が聞こえ、私の鼓膜を振動した。これは、私には聞き覚えのある曲だった。  ――これは。 「ニュルンベルクの、マイスタージンガー、さ。ワーグナーのね」  その声と共に一つの影がふわりと舞い降りてきた。  視界は朦朧として、ただ分かったことと言えば  ――死神――……  私にはそうとしか思えなかった。  私は既に痛みの無くなった躰を何とかして捩り、自分の顔を影に向けた。向けた先には窓があった。  そこに見えたのは逆光で殆ど見えない影と、夕焼けがあった。中間色を織りなし、その色に染まった雲の無造作さが一層綺麗に私の朧気な視界に映る。  ただ、その為なのか影は、儚げに私には見えた。 「あなた……は……」 「君に、一つ質問をする」  影は唐突にして聞いてきた。 「ある人は、"命に必要のないものなんて無い"という。またある人は、"命に意味なんてあるわけがない。従って全ては、必要といえる道理はない"という。さて……、どっちが間違いでどっちが正解なのか、君にわかるかな」  ……この、急に私の前にやってきた死神はこれから死ぬという人に何故こんな変な質問をするのだろう。そんな疑問も湧いてきたが、今の私にとって、そんなことはどうでも良かった。  それに、別の人物に私が殺されていなければ、きっとこの死神が、それを実行したに違いない。何の根拠もないのに、私はそれを確信していた。  この人はきっと、私の言葉を聞くためにわざわざこの場に顕れたのかもしれない。そう、思いたかったのだ。  覚束ない口調で、私は出来るだけの声を振り絞った。 「ねぇ死神さん……私が寂しく感じるのは、独占欲なのかな。それは、恋なのかな。それは、憎しみなのかな。全ての正反対に見える事象は互いに排反ではなく和事象だから……。いくら言葉で区切っても心の発生源は常に同じで、正反対の言葉だからこそ、逆説的に同義なんだわ。間違いも正解も、ある一定の価値判断で決定してしまうのは自明の理だもの。偶然ということも必然ということも、悪であるのも善であるのも、従って間違いであるのも正解であるのも……、そう、確かに同じだし、逆説的に、"答え"はないわ。でも――」 「――操られていることも、かい」 「――え」  虚を突かれた。 「その場合だと、いつまで経っても答えは出てこないということになる。どんなに法則性を見極めても、この世に生きている僕たちが不変でない限りは、とどのつまりそういうことだ。ならば今のぼくたちの存在は滑稽なのだろうか、とね」  それは私が今まで自分自身に問い正してきた問いなのだろう。目の前にいる死神は、敢えて私にその問題を今、提示してきたのだ。お節介なことに。 「……でも、だからこそ私達は問い続けることを止めてはいけないのよ。"運命の操者"は決して応えてはくれないわ……問い続けることが私達が人であると言うことの証明にならないと誰が言えるのかしら。いえ、もしかしたらそれが私達に課せられた仕事なのかもね。……譬え、操られていても、滑稽でも」 「そのようだね」  だが、私はそれはもう出来ない。あとは後に続く人がきっと繋いでくれるだろう……。いつかは誰もが辿る道程を。必然とも、偶然とも、言える道程を……。私はこの死神に問われて、初めてこんな考え方が出来た気がした。 「死神さん。あなた、名前はあるの」 「生憎、僕は自動的なんでね。名は持ち合わせていないのさ」  力無く、もう瞼は動いてはくれない。ただ、視界が閉じる前に、その影は怒っているような、笑っているような、左右正反対の表情をしたことだけは見て取れた。  彼は身を翻し、また、夕闇の中へと消えていった。 「――死神でもないわね」  私はくすくす笑っている。何が可笑しいのか、私にも分からない。だけど、 「それは、きっと――」  そのまま、十六夜 卵は次の言葉を紡ぐこともなく、目を硬く閉じたまま、二度と目覚めることはなかった。  それは、誠一が夭逝する三日前のことであった。                  六 運命の輪      ――The Ring Of Destiny――      ……Epilog      何故私達はここまで革命と適応を繰り返してきたのだろうか。私達に組まれた適応という名の自然淘汰のプログラムは、如何にして決められたのか。個人的な意志は、いずれにしても何らかと繋がりがあり、その連結は留まることを知らない。……もしその中に、意志があるとしたら、それは一体何なのか。そもそもそんなものはなかったのだろうか。  "運命の操者"はいつも沈黙したままで、決して応えてはくれない。             霧間誠一の遺稿より      春の陽差しは暖かい。これで眠るなと言われても無理な気がする。私、末間和子は、ウトウトとはするものの、ノートだけはくねった字で何とか書いていた。  春眠暁を憶えず……  温度も湿気も、丁度トランス状態に入りやすい季節なのだ。今日も、前の席から後ろの席を眺め渡してみると、真面に起きていられる人の方が珍しいぐらいだ。  しかし、教室の窓際で授業中堂々と寝ている凪は、春だろうとなんだろうといつも寝ているのだが。  休み時間のチャイムが鳴ると、私は速攻凪の席の前まで行ったが、何故か凪は休み時間になるとさっきの爆睡は何処へやらの風情で起きていた。 (ふつーは逆でしょ)  私は苦笑めいた表情をした。  凪は、いつになくボーっとしている。"炎の魔女"なら、周りの人にこんな顔を見せたことはないかもしれない。 「凪……どうしたの。心此処に在らずとした顔してるじゃない。滅多にないわね、こりゃ」 「うーん、まぁなー」 「完全に寝ぼけてます」  私がそう言うと、凪は顔を伏せたまま笑いを堪えようとしている様子が見て取れた。私も何だか可笑しくなって一緒に笑った。こんなに陽気なのは、きっとこの暖かさの所為だろう。 「はいどうぞ」 「何が」  凪はきょとんとした。 「だから、なぁに考えてたのってこと」 「ん、ああ、そういうことね」  生欠伸を噛み殺しながら、凪は窓から校庭を暫く見ると、目が覚めたのか、こちらに向き直った。 「昔、さ。怒濤の日々っていうのがあったんだよな。あれは親父が死ぬときでもそうだった。その中で、普通になろうとしてなれなかった人が居たんだ」 「え、どゆこと」 「きっと頭が良かった人だったんだと思う。オレが小学四年の時だっけな……。親父は死ぬ三日ぐらい前。会ったときは、とても追いつめられた顔をしてた……。  もしかしたら、その人は自分に足りないものを補おうと頑張ってた人なんだろうなって今更ながらに思ってたわけ」  凪が眠りこけながらそんなことを考えていたのか……。或いは、夢で思い出したのかもしれない。 「でもさ、私達の人生ってホント、足りないものやトラウマを、埋め合わせようとしたり元に戻そうとしたりして、必死になって頑張ってるみたいなモンだけどね」 「それは和子が一生懸命だからさ。大体、トラウマが人生の原動力となると言ってる人が居るぐらいだからね。此処にいるオレも和子もきっとそうに違いないんだ」  涼しい風が窓から流れ込んでくる。それと同時に、外から木々のざわめく音も聞こえた。 「……霧間さんなら、こういう時はこう言ったかもしれないなぁ」 「オレも霧間です」 「誠一さんの方だってば」  凪はこうゆうふざけた言動を偶にする。それはそれで、私から見たらその姿は女子高生に見えるので不思議なものだ。 「へいへい。んで、何だって」 「んもう、話の腰折らないでよね。ええと、霧間さんが「秩序の世界」って言う表題で言ってた言葉なんだけど……  "君が毎日過ぎていく日々に「こんな筈ではない」と感じたり、世界に違和感を覚えたとき、それは既に君の可能性を示す表象なのだ。"  ってね」 「可能性か。じゃあ、それがどんなものでも」 「そう。それが社会にとって悪であろうと、それが譬え操られていようと、いまいと、よ」  凪はその言葉に反応したのか、躰を少しぴくっとさせた。 「運命の操者」 「ん」 「いや、ああ。そうだな」  休み時間終了のチャイムが鳴った。それと同時に凪は腕に頭を乗せて寝る体勢をし、私は急いで自分の席に戻ろうとする。その時振り返って見た凪の寝顔はあどけなく、私は何故かホッとした。  寝ている凪の頭に一枚の花びらはやって来た。    櫻の花は、散っている。                                      目的論――テレオロジー――の別名である運命論――フェイタリズム――は、私達一人一人、そしてまた宇宙が、最終的な目的に向かって動いてると思いこませる。その目的は様々に定義されるだろう。  ――神との再合一と全ての罪からの救済。  静止に向かってのゆっくりとしたエントロピーの増大。  進化し続ける意識と、物質から霊への溶解。  より良き人生へ、或いは不幸な人生へ。  黙示録的破局か、神の救済か。             ジェイムズ・ヒルマン「魂のコード」