faint hope ------------------------------------------------------- 【glas-gather】 http://glas-gather.org/ 真皓 伽夜 [途中で諦めたFate/stay nightのSS。] -------------------------------------------------------    ふわり、と少女は夕闇を背にやってくる。軽いウェーブがかかった何にも染まらない緑の黒髪から、微かな柔らかい香りがした。ふわり、と。  前後感覚も重力も何も感じなかった。彼女は軽い。いや、全ての感覚が狂ってしまっているのかもしれない。時間の経過が粘性の高いマグマのようにねっとりとしている。ゆっくりと、彼女は感覚のなくなった首筋に華奢な指を押し当てる。  朱く染まった夕闇は逆行で彼女の表情を覆い隠す。今、彼女はどんな表情で首筋に指を押し当てているのか。絡め取られていく意識の中で、僅かに残った意識の端で悲哀を感じていた。目の前の人物の名前を呼ぶ。それに反応してその人物は肩をびくっと顫わせた。その人物もまた、これから行おうとしていることが自身にとっても相手にとっても悲しい結果に終わるしかないことを知っていた筈だ。それでも彼女は止まる事は無かった。自ら自身を殺し、一人の少女を封殺した。その事実にやり場の無い憤りを覚えた。  自分の感情が悲しみで満たされている。怖くは無い。これは自分が冒した失敗だからだ。ただ、彼女にその失敗を拭わせてしまうのがどうしでもようもなく悔しかった。失敗しなければ、彼女に辛い思いをさせる事も無かった筈だ。彼女の意志は強固で、おそらく自分が彼女のことを忘れても義務だった、とでもいうように自己を殺すだろう。  ――こんなことになるまでは、遠くからただ憧れの対象として眺めていただけだった。  彼女が「魔術師」であると知った時、驚きを遥か飛び越えて唖然とした。同時に、共通の部分があるという点、それも人間としてはかなり特殊な領域でお互いの秘密があるという事実に高揚した。心は強くしなやかで常に気高く、それでいて素直ではなく、怒りも微笑みもその表情に宿しくるくると変わる。学校では猫被りで数日前までちっとも彼女の正体なんて知らなかった「あかいあくま」。だが同時にその正体がどうしようもなく可愛いと思えた。その感情は心の全体にじわじわと攪拌し徐々に支配していく致死量の毒だ。落ちていく灯火が視界を紅く染め明滅する。シャットダウン寸前の意識。朱い陽光は雲によってその姿をほんの一瞬だけ隠す。水滴が頬を撫で、つつ、と落下した。  その水滴は彼女の持っていた水滴だったのだと、その瞬間理解した。  その名は確かに彼女そのものだった。  眦から溢れる涙を抑え込む様に目を細め、こちらの意識を強制的に切る魔力を直接流し込んでくる。全体に行き渡った病巣に抵抗し、彼女の腕を弱弱しく掴む。それでも彼女の力は弱まらない。背中に直接電気を流し込まれたような感覚が体を跳ね上げた。   「――遠、坂」    泣いている。あかく、あかく、    ぶつん、と音が    、      *    空は曇天に覆われ、水滴が頬を濡らす。それは真上から全身に降り注いだ。火傷を負った体では、たかが水滴であるにも関わらず、その水滴は槍の様に全身を穿ち体力を根こそぎ奪っていった。ぜいぜいという呼吸音が耳に衝く。これは声帯から漏れているのか、と疑問にすら思った。  地面へと倒れた体は動くことすらままならず、その曇天を見つめ返すのみが可動範囲だった。曇天ではないとその時気付いた。これは焼け焦げた後の煙だ。肉の焼け焦げた臭いが、風に乗り僅かに機能する鼻腔の粘膜へと付き異臭であると感知される。性急な嘔吐感が満足に動かない体を痙攣させ、吐き出した胃  の内容物が口の端から流れる。口の中には胃液と家族で先ほどまで食事していたものが雑ざっていた。これではただでさえ酸素が枯渇したこの場所で息ができないではないか。先程までの激しい呼吸音は終末呼吸に近いものだった。酸素が燃焼し別の気体になっているのだから、皮膚呼吸であれど取り込んだことにはならない。口に溜まったものを嚥下すれば呼吸ができる。だが不思議なことに嚥下という動作を忘れたかのように、喉へ脳から命令を送っても信号が行き届かなかった。結果的に顔を横に向けだらしなく開いた口からぼとりと内容物が転がり落ちることとなる。  ひくっ、と喉が鳴り、ただ反射的な動作のように二度目と言わず、三度、四度と嘔吐と静止を繰り返していた。今更胃液の臭いが蔓延しようがしまいがそんなことはどうでもよかった。  何を願っていたのか、何を想っていたのかをただ忘れ、「助かりたい」という願いに全てを変換した。酸素が欲しいと腕を上に翳す。伸ばした先の掌の丁度真ん中に黒い太陽があった。弛緩した指でそれを掴もうと動作する。茫洋と焼け焦げた平地を歩き彷徨っていた時に、幻なのか分からないが黒い太陽を見かけた。見た途端、これが元凶であると思考の端で納得して居た。その強大な力はこんな数百メートル以内に居る人間なんて一瞬で葬りさるだろう。事実、生きていると確認できるものなんて一つだって無い。みんな死神の鎌で刈り取られ、あの黒い太陽の供物とされたのだ。そしてきっと次は自分の番。  どうして、自分はこうやって死にそうになっているのか。  どうでもいい。  諦観と共にあるその思考を反芻する。  忘れよう。  全身を蝕んでいた痛みがふわりという軽くなる感覚と共に失せていく。最初からこうすればよかったんだ。  侵食していく思考。  全身が熱い。重力がなくなっていく。軽いのか重いのか、上なのか下なのか。沈んでいるのか浮いているのか。  右腕だけが黒い太陽を掴んだまま硬直している。  何かがその手に触れた。  血流は既に熱によってドロドロになるまで凝固し、体中の水分は蒸発。だから感覚などとうになかった。  その、冷たく触れた水滴を除いては。  泣いている? いや、これは単に今までの降雨の影響で滴り落ちただけだろう。だがそう錯覚させられるほど、嬉しそうに、そして悲しそうに、未来と言う名の希望をこの黒焦げた体に入った存在にやっと見出したかのように微笑んだ。  よかった、と思う。何も出来ないまま死ぬよりも、せめて最後くらいは何かを残しておきたかったからだ。家も家族も、まるで今までが夢だったかのよう  に消失した。自身も何かを喪失し、ここから先は何も無いところへと向かうのみだった。だから、何かを心に刻み付けてくれる人がいること自体がこれ以上もない喜びだった。  よかった、と言いその相手は既に空っぽになりかけの体を優しく抱く。手足のちぎれかけた人形のように四肢はだらりと垂れ下がり、心臓や生命をつなぎ止めるものをキリキリと締め上げた。魂が抜けかけているというのはこういうことなのかな、と酷く冷静に考えていた。  同時に何か、暖かいものが体内を通った。感覚は無いから魂で感じるしかない。彼はおそらく自分を生かそうと考えている。  既に空っぽになってしまったのに、目の前に居る人は俺を生かそうとする。  何のために。  生きて欲しいからだろうか。だがそんな単純な理由であのような複雑な表情をするのか。きっと誰もが息を呑んで絶望するような状態に、一縷の希望を誰かに託すように彼は見据える。彼が背負っていたものも望んでいることも何なのかは分からない。  それとも、その「希望」という一縷の望みを、彼もまた誰かに託したかったのだろうか。    朝の日差しが、眠っている意識へと刺激を体全体に行き渡らせる。数回寝返りを打った後、何かを思い出したかのようにぼうっとした頭のまま起き上がる。視界に映る景色から、ここが土蔵であると理解した。だが、どうやってここに来たのか、どうしてここに来たのかというその理由がない。ここには道具を修理する時や作業をする時に利用する場所だが、寝食以外はここで過ごす日々も多い。おそらくそのどちらかの作業をする途中で眠気に襲われたのだろう。  ふと腰掛けている場所を見渡すと、毛布が少し離れた場所に放り出されていた。寝る時に掛けていたものだと推測できるが、寝ている時に布団を蹴って剥いでしまったのだろう。お陰で風邪のように体がだるく感じ節々が痛み、脳は重い霧がかかったように鈍重としていた。確かに、こんな冬の季節に布団も敷かず倒れたままだったというのは風邪をひくには格好の条件だ。全身に血液を行き渡らせようと、腕をあげ肩慣らしをする。その時に、初めて目の前に桜がいることに気が付いた。 「お、おはよう。桜」  今まで気付かなかったことに辟易する。呆けていたにも程がある。 「はい、おはようございます、先輩」  桜は今まで気付かなかった態度に、少し苦笑した後微笑んだ。 「朝ご飯作らないといけないな」  よっ、と掛け声を出しながら床に手を置き体を支えつつ起き上がろうとした。 「あ、れ」  ずしゃ、と情けなく尻餅をついてしまう。桜も驚いたようで、あわあわと目の前で慌てふためいている。不謹慎な話ではあるが、こういうときの桜はかなり可愛い。ただでさえ桜の目の前で尻餅をついたという事実だけでも恥ずかしいことだが、彼女のくるくる変わるその表情に笑みが零れる。  改めて尋常ではない状態に気付き確かめた。発火するかと思うほど全身には熱が篭っており、だが同時に悪寒がぞくぞくと神経を這い上がる。頭痛が全身の機能を冒しているが如くその部分の痛みと熱に意識が朦朧とし、目の前に桜がいなかったら起きた直後また昏倒していたかもしれない。 「こりゃ、本格的に風邪ひいたかもしれないな」 「先輩、無理しないでください。朝ご飯なら私が作って先輩の部屋まで届けますから」先輩は部屋に行ってゆっくり休んでください、と優しく微笑んだ。  確かに重症かもしれない、と思い「じゃあ、任せるよ」と桜に言った。 「はい」 「うん、ここじゃ酷くなるかもしれないから部屋いって休んでるよ」  先程は立ち上がることが出来なかったが、気を入れたら倒れずに済むようにまではなった。よろよろと立ち上がり、頭痛を左手で何とか抑え込む。壁に手をつきながら土蔵から出る。桜もそんな俺を手伝うように寄り添いついて来てくれている。漸く部屋に辿りついた時は何かがごっそりと抜け落ちたように精根尽き果てていたことに気付いた。指を一本一本確かめるように握り締めてみる。関節という関節が錆びた鉄同士を半田鏝にしているかのように熱を発しながら軋む。  はぁ、と溜息を吐き、また再度、この息苦しさから逃れるために溜息を吐く。まるで思考が目に見えない蛇に絡め取られて暗闇へ運ばれていくような感覚だった。朝日は昇り、これから桜が作ってくれる朝食が運ばれてくるだろう。それまではなんとしても意識を保っていたい。  ふと左腕に、つきん、と鈍い痛みがした。左腕全体に、神経が攣るような痛みに暫し硬直した。神経的な痛みは、脳に直接がんがんと鉄鎚で穿たれているような感覚を与えてくる。風邪の症状との同時進行には堪える痛みだ。左手を見る。普通と変わらない。何故――と考えていると、部屋を挟んだ廊下から藤ねぇの甲高い「えー、士郎かぜー?」という叫び声もとい雄叫びが聞こえてきた。風邪なんてそうそうにひいたことも無かったためか驚くのも無理は無い。壁に凭れ、畳の上に座ったまま天井に顔を向け眺める。 「そうだ、学校に行かなきゃな」  うわ言のように呟くが、どうしてそう思って口を吐いたのかが判然としない。だが学校に行くという事実自体は正しいので深く追求しないことにした。  階段を昇ってくる桜の足音が聞こえ、閉じた襖がゆっくりと開けられる。 「先輩、大丈夫ですか」  食事の乗ったお盆を下げ、心配そうな目でこちらを見る。 「ああ、大丈夫だと思う」 「それ嘘ですよね」と桜は苦笑する。「だって先輩の顔色真っ青ですよ、お布団用意しますから今日は学校を休んでゆっくり休んでください」と強気の態度でずずい、と顔を寄せ付ける。  確かに彼女の言う通りだった。体は思うようにならないわ、頭痛はするわで思っているよりも体のほうが先に悲鳴をあげている状態だ。鈍いだけなのかもしれないが精神状態は至って正常だった。風邪の症状というだけなのだから桜の前で弱るわけにはいかない。だが、休んだほうがいいのも事実だ。無理をして朝食まで作ってくれた桜に夕飯まで作って貰うわけにもいかない。「わかった」と両手の掌を桜のほうに向け、降参のポーズをし観念する。 「はい、そうしてください」と彼女はにっこりと微笑んで見せた。  ああ、もう完敗だ、ちくしょう。と心の中で毒吐く。桜のこの笑顔には弱い。目を少しだけ細め、微笑んだ口元の筋肉が影響して、下瞼はほんのり桃色に染め僅かに膨らむ。丁度心臓の真ん中を中てられた心境に陥る。断ることなんてできるわけがない。お盆の上に乗せられている朝食は、おそらく今作ったであろうお粥と味噌汁、鯵の開きと備え付けの梅干、桜は和食派だと知っているのでそれに沿って作ってくれていた。油物が無いのは、桜が気を利かしてこってりしたものを避けて盛り付けたからだろう。その心遣いが何よりも嬉しかった。  桜はその場から立ち上がり、布団を押入れの中から取り出すと実に颯爽と手際よく、畳の上に敷布団を置きシーツを掛ける。その上に掛け布団を空気を含めるように優しくふわりと置く。朝日と朝の澄んだ新鮮な空気と共にそんな彼女の爽やかな姿を見たものだから、なんだか、奥さんみたいだよな。などと思ってしまった。そんな考えに、バカだ俺は、というか不潔だ、不浄だ。と思い両の掌で頬を叩いた。  つい最近にも、こんな優しい空気を纏っていたものを見た気がする。それは夢だったような気もするし、幻なのか天使――のように見えたものだったような気もする。その実像を思い浮かべようとするが、巨大で越えることの出来無い強固な壁が目の前に聳え立っていて、その先を見通すことが出来ない。その前に立った時、まるで磁石の同極をくっつけた時のように急激に強制的に引き戻され、記憶をまさぐる初期位置に立たされていた。  おかしいな、と思いまた記憶の糸を辿っていく。気が付いたら、記憶の糸を辿ろうと意識したが最後テレポーテーションし、最初からし直しますか? なんてセーブも出来ないゲームでゲームオーバーになったかのように再び初期位置。なんというか、ランドセルを背負った小学生が登校途中に忘れ物はないかと思い、背中に言い知れない不安感を抱いているかのような感覚だった。忘れ物はないだろうか、とランドセルの中身を路上にぶち撒け確認しようとするが、その中身が元のランドセルの中にきっちり入って背中にまた背負った状態まで戻されている。 「先輩、今日は私学校に用事があって先輩を看病できないんです。ごめんなさい。終わったらすぐに帰ってきますから」 「ああ、そんなこと気にするな。風邪ぐらい夕方になるまでなんとかするから、桜は自分のことを考えてろ」 「はい、でも早く帰ってきます」  桜は立ち上がり、じゃあ行って来ます、と言いながら廊下に出て優しく襖を閉めた。廊下を歩く音がし、窓の外を覗くと桜が玄関から出て行くのが見えた。 「まぁ、ここまでしてくれたんだからちゃんと休まなきゃな」  体は未だに重く、こうしているだけでも意識が沈潜していく。ままならない体を、四つん這いで布団の中に手足を潜り込ませた。何とも情けない布団の入り方と言えるだろう。はぁ、と溜息と共に瞼を閉じると、今まで意識を保てていたのが不思議なくらいに一気に沈み込んでいく。  桜が持ってきてくれた朝食もまだ食べていない。体を奮起させ起き上がろうとするが、体のほうが強制的に意思と感覚を遮断させているかのように全く無駄な行為となる。ずるずると真綿で首を締められているような感覚が意識を搾り取る。  思い起こせば何故土蔵で寝そべっていたのか。  きっかけさえ掴めば、芋蔓式に思い出すことが出来るだろう。記憶というのは手繰り手繰って連鎖的に反応させ刺激されあうものだからだ。だから一時的に思い出せなかったとしても、思い出すきっかけはあちらこちらにある。きっかけは「何故土蔵にいたのか」。  何か、大切なものがあった筈だ。  薄れ行く意識が思考を鈍磨させ眠りへと誘っていく。 「なんで俺は、あんなところにいたんだ――」  気が付いた時には夕方に差し掛かり、西へと沈み赤く染まった空の光で覚醒する。 「……はぁ」  空の様子を見れば一目瞭然のこと、丸一日寝ていたようだった。桜も早く帰ってくるということだしそろそろ帰ってくるだろうと予測がつく。すっかり冷めてしまった味噌汁とご飯をゆっくりと咀嚼し嚥下する。臓腑に流し込まれた冷たい食物は物悲しさを感じさせる。胃が少々重く感じるが何も食べないよりはましだった。朝あった風邪の症状もすっかり影を潜めている。 「――そうだ、った……」  土蔵のこと。あそこで寝ているのは何故か、という疑問が浮上したところで眠気への抑制が効かなくなり、そのまま意識を失ったままだった。どうしてかは分からないが、それを取り戻さなければならない気がする。その衝動が、病み上がりの身体を奮い立たせ、壁に手をつきながらよたよたと土蔵へと足を運ばせた。蝶番の軋む音と鉄錆びた匂い。いつも過ごした痕跡のように生活臭がし、そこかしこに散らばった機材が今まで使われていたことを示していた。  辺りを見回す。今日剥ぎ取った布団は地面に放り出されたままだった。いつもの見慣れた風景しかそこにはない。何かのきっかけを得ようと思ったが、手掛かりすらない。どっと全身の力が脱力し、床に腰を落ち着けた。はぁ、と溜息をつき吸った土蔵の空気は冷たく湿っぽい。何かを期待してここへ来た。それが結果的に何も無かった。じゃあ、次は――?  次。次など無いだろう。何故次があると思ってしまったのか。ははっ、と力なくう。  この、ぽっかりと空いた穴は何だろう。  目的がない。目標が無い。  生きる意味が――  突如目の前が濃霧が発生したかのように白く包まれる。それは部屋全体に拡がり、一時を待たずして白い空間へと変貌した。何が起こったというのだろう。先程までは落ち着いていた呼吸が息苦しいものへと変わっていた。咽頭から肺への空気の流れを感じない。脳の中がシチューのようにぐつぐつと湧く。痛い。何が、一体何が。 「――はぁ、……ぁ、」  息苦しさに左手で心臓を鷲掴みにする。一体何がこの部屋にあるのかと考えを巡らせ、そこで愕然とした。何もおかしいものなど無いと分かったはずだ。なのに、何故自分の身体にこんな変調があるのか。  そうか。と床を見遣る。足元に金属の感触があった。料理包丁でも、試合用刀でもない。本物の金属。否、まるで中世時代から直接刳り貫いてきたような刃物。形こそ不細工だが、現実には在りえない存在。それが、この痛みの正体だと理解した。  これを忘れている。忘れている。忘却、破却、滅却。  手にとろうとその物質に右腕を近付ける。 「――思い出せ、思い出せ、戻るな、」  視界は歪み、幻想が解ける。その前に――その前に、この壁を突破しなければならない。どこに手を向けているのか。手を向けた先はその物質ではなく、その先にある記憶。  脳が融けても構わない。それを得られなければ、死ぬ。怖くて堪らなくなる。  振り返るな。自分を振り返るな。振り返れば取り返しがつかなくなる。誰かが問い掛ける。お前は何もない空っぽの存在だろう、と。それは口を歪め完璧なる殺意を以ってこちらへと一歩一歩近付いてくる。振り向くな。見れば全てが終わる、と全身が告げている。ガクガクと視界が揺れた。それと同時に、視界をも圧迫する激痛で現実に戻る。 「あ、あぁぁ――」  夕日が肌を灼き、視界を白と赤に明滅させた。薄暗い土蔵の中、身体だけがなにかの痛みに耐えるようにのた打ち回る。前(さき)へと伸ばした筈の右腕は、今は痛みを堪える為に頭へと回されていた。思考が強制的に遮断される。生理的な涙が眦から零れていた。床へ倒れた身体を仰向けに動かし空気を取り込む。 「……くそ、もう少しだったってのに……」  呼吸を整えたらもう一度挑戦する。脳が割れようと構わない。今はただ頭痛など早く消えてしまえばいい。それよりも大事なものがある筈だろう。  そうだろう――衛宮士郎。    昨日のあの激痛が起きた後も、酷い肩凝りになったかのように脳に血液は循環することなく滞り、鈍重とした後遺症として残っていた。あれをもう一度試みようとはした。なのに、頭痛が邪魔をして全く先に進まない。あの頭痛はその思い出そうとする動機――一瞬でもそう考えればそれが激痛となって現れる。  何故かを考えれば、それは恐らく、と、そう考えている間にも鈍い痛みが脳内に響いた。だが昨日ほどではない。今平静を保っていられるのが不思議なほどに昨日は酷かった。桜が帰宅した頃には、自分は土蔵の中で全身に汗をかいたまま倒れ気絶していたという。そして気が付いた時には朝を迎えていた。そして昨日と同じくまたしても寝坊である。  台所へ向かうと桜が挨拶をして出迎えてくれた。昨日も桜に作って貰ったのになんて体たらくなのだろう。男としてどうなんだと思うが、待てよ、と思い直す。殆どの健康な男子学生は先立って積極的に家事には関わらない。主夫か、と思うとがくっと肩が落ちる。  昨日だけでなく今日も作ってくれたことを申し訳なく感じた。桜に今日の夕飯は作ると言い、桜と一緒に食卓に料理の乗った皿を並べていく。桜もそれを有難い事に半分承諾してくれたので、汚名によるプライドは何とか保たれることになった。  昨日の風邪による症状はすっかり影を潜めている。ただ、風邪をひくにしても鼻水や咳といった二次症状が現れるものだがそんなことは全く無く、休息をとったことで改善したようだった。  人数分の皿を順々に運んでいく。じゃあ食べるか、という雰囲気になった時、藤ねぇが居間にやってきた。朝の挨拶をし、眠気を抑えるように目を軽くこすりながら机につく。 「あれ」と藤ねぇが思わず不思議そうに呟いた。おかしいなぁと言いつつ何かを探してるかのように辺りをきょろきょろと見回す。  一体この食卓の何処に不思議な点があるのだろうか。桜の料理そのものか、それとも格好か。朝から何を探しているのかと聞くと、おかしいところなんて何処にも無いらしい。なら、先程の疑問は一体なんだったのか。  彼女のその態度に既視感を感じる。その感覚を思い起こせば、昨日抱いた感覚そのものであることに思い至った。  何か忘れているという感覚はあるものの、思い出すことが出来ない。この家の流行り病なのかと思いたくなるような共時性、共通性がそこにある。  何か忘れたものはない? と聞いてくるので具体的なものは何があるのかと問い返した。  すると案の定「分からないから聞いてるんじゃない」と逆切れされる。だが、本当に何も思い浮かばないのだから仕方が無い。  今度は懲りずに桜にまで忘れ物は無いか、と言っている。この家の全員が何かを忘れていたとしたらそれこそ何の病気なのだろうか。だが、こういうふとした疑問を抱く時の彼女の嗅覚や直感は素晴らしく秀逸しているということは認めているため、そうそう彼女の疑問を簡単に切って捨てることが出来ないのも事実だ。桜は食器を並べ終わったのか、エプロンを脱ぎながら藤ねぇの質問に答えた。 「私は特に。藤村先生の気のせいだと思いますよ。何も忘れてませんし、誰も忘れてないでしょう」  箸を決められた席に並べながら、少し突き放した物言いで言った。そっかぁ、と藤ねぇは嘆息し、「思い出せないってコトは大したコトじゃないってコトだし」と桜の言葉に納得したようだった。胸のつかえが取れたとでも言うように、座布団の上にどかっと腰掛ける。  誰も。  そう、「誰も」忘れてなどいない。なのに、どうして動悸が激しくなるのだろう。昨日は何故土蔵にいたか、というのが疑問の最終的な問いだった。そしてあの物質が視界に映り脳で像を結ぶ。そこから何も進んでいない。単に、藤ねぇのように思い出せないことは大した事ではないと割り切っても別段構わない。だが、考えるたびに不安になる。考えることなくただ、桜や藤ねぇと日常に勤しめば何ら問題は無い。 「――ぐっ」  痛みに頭を抱える。そこで初めて頭痛であるということに気付き、そうか、頭が痛いのか、と自分の反射的な行動を反芻する。桜が心配そうな表情でこちらを覗き込み、藤ねぇは暢気そうに「ちょっと、大丈夫?」と聞いてくる。  背中に手が届きそうで届かない焦燥感と、それを逃れるために発生している頭痛が同時に襲っている。その痛みに敗れ、やはりその記憶を辿る道は初期位置へと戻っていた。途端に痛みはすぅっと薄れていき、額に浮いた脂汗がこめかみを伝った。 「……大丈夫だ」 「先輩、あまり考えないでください」  頭を抑えた手を、桜は手に取り物憂げに俯いた。昨日の今日でまたしても桜に心配を掛けてしまったことが悔やまれる。しっかりと風邪を治していなかったことに危うく自己嫌悪に陥りそうになった。「大丈夫だよ、多分昨日の風邪が響いたんだろ。そのうち治るって」と桜の手を握り返した。桜は苦笑して「はい」と頷く。 「そんな感じには見えなかったけど――」今日も休む? と藤ねぇはこちらの態度に怪訝に思ったのか、心配そうな眼でこちらを見据えた。 「ああ。昨日の風邪も治ったし、今日は学校に行く」 「今日はテストだからねー。覚悟しててよ」  げっ、マジか。と言いそうになったので自制をしたが、その叫びは喉奥でゴロゴロと音を立てることになった。不満そうな態度が向こうに伝わったのだろう、藤ねぇがこちらを睨んでいる。予習もしていないのに抜き打ちテストなんて卑怯だ。風邪をひいたこちらが悪いのは分かってはいるのだが。 「じゃあ、士郎今日は学校に行けるのね?」 「ああ」  そっか、そっかと藤ねぇは嬉しそうに頷く。今まで気付かなかったが、藤ねぇも藤ねぇなりに心配していたのだろう。学校に行けると告げた後の一転した嬉しそうな顔は、それを物語っていた。ありがとうタイガーと心の中で呟く。む、と彼女の目尻に皺が寄るのは彼女の第六感の鋭敏さによる。  食事が粛々と終了し、桜と藤ねぇは足早と玄関から出て学校へと向かっていった。食器を片付け、学校へ行く準備する。洗面所の鏡で顔を覗き込むと別段顔色が悪いわけでもなく良好だった。昨日の桜のように顔色がおかしいところなどを一成辺りに見られたら、帰れと言われあまつさえ見舞い品まで持って見舞いしかねない。  よし、と自分で自分に掛け声をかけ、必要な荷物を鞄の中に詰め込み玄関を出た。  二車線と横並びすれば二人で歩けるほどの歩行者専用道路のある坂道が続く。急いでいるのか自転車で腰を浮かせながら猛スピードで漕ぐ学生もいた。学校へと向かう制服を着て学校へと向かう学生は悲喜交々。日常とはそういうものであり、彼らもまた自分の将来を楽観したり悲観したりして考える。一人で坂を登る者も居れば、数人で取り囲み和気藹々と歩を進める学生もいる。何故だか、それを懐かしいとすら思い安堵する自分がいた。  その中の、颯爽と毅然を纏って歩く学生が目に留まる。周囲の学生はそれを避けるようにして歩いていた。避けるというよりも羨望の目で遠巻きに見ていると言った方が正しいような気もする。学生の中でも人気アイドル扱いされている人間にはよくある現象だろう。彼女はそれに頓着することも無く歩を進める。  まるで、「凛」とした空気が彼女の周りに抵抗を生み出し、彼らを何か見えない力で押し出しているように見えるような、不思議な光景だった。  ふと、こちらの視線に気付いたのか、彼女は目を細めこちらを向く。その表情は怪訝ではなく驚愕だった。その表情に心臓の鼓動が跳ね上がり、心拍数が上がる。  視線が交錯する。  視線を何処に置けばよいか分からず思わず俯いて地面を視野に入れる。彼女はこちらを観察しているかのように、その視線は鋭い。一体全体何なのか、と思う。ただ彼女の姿を視野に捉えただけでこちらの姿をこうも観察されては気分が悪い。  それが一体何秒続いたのかは数えていないが、おそらく数秒に過ぎないだろう。だがその視線に痺れを切らすには十分過ぎる時間だった。彼女は「ふぅ」と溜息のようなものを漏らすと、黒髪を二つに結ったツインテールを揺らし踵を返した。地面を視界に入れたままだったため、坂を昇っていく彼女の姿は徐々に遠ざかり見えなくなる。彼女の視線が外された所為か、ふっ、と全身の力が抜けていった。  周りにいた学生も、彼女の視線に合わせてこちらを注視していたらしい。ということは、彼女は一目で容姿端麗だと分かるので八割方アイドルと呼ばれる人間なのだろう。何故そんな人間が自分に注意を向けたのかなど分かる筈も無い。む、と無意識のうちに眉根を寄せていたようだ。その周りの視線に不機嫌さが増していくのが分かる。だがその周囲の視線は後ろから来る学生によって終了した。 「なんだ、衛宮。今遠坂と睨みあってたのか」  柳洞一成は自分の肩に手を置きこの視線の集まった場を払拭した。その言葉が合図だったかのように周りの学生はまたランダムに学校の校門を目指す。一成は何を隠そう生徒会長という肩書きだ。知らない人間は校内にはほぼいないと言って等しい。そんな人間が自分に声を掛けるほどの仲だというのだから無理も無いだろう、と苦笑した。声を掛けてきた友人におはよう、と返事をする。 「……って、今のは別に睨み合ってたわけじゃない。ただ目が合っただけだよ」  先程の彼女との奇妙なやりとりを一成も見ていたらしい。そう言うと、彼はむ、と怪訝そうにこちらを見る。 「そうなのか? ならいいが、くれぐれも遠坂に喧嘩なぞ売るなよ。あいつは倍返しが信条だからな」残る一年の学園生活を棒に振ることになる、と言いながら何か恐ろしい化け物を成仏させるようにお経を口にする。一成は基本的に寺の跡取としているためこういう口調は日常茶飯事ではあるのだが、件の彼女は彼にここまで言わせる人間なのか。だが一成の物言いには釈然としないものを感じた。 「ばーか、喧嘩売るも何も、俺、あいつ知らないぞ」  そもそも、知らない人間に喧嘩を売る方がどうかしている。一成は自分をそういう目で見ていたのか、などと少々不貞腐れてやりたい気分になった。だが、その言葉に驚いたのか、一成は目を見開いてこちらを見る。呆然、という表現が正しいかもしれない。何か彼の地雷でも踏んでしまったのだろうか。取り敢えず「凄い美人だったけど」とフォローを入れた。  何か既視感を感じる。デジャヴ。一成の反応は先程の彼女と相類するものがあった。藤ねぇと自分の忘れ物でのデジャヴ、一成と彼女のデジャヴ、それは共通性こそ無いものの、どこか一点を指した何かがあるのではないか。そんな自分の考えに、そんな馬鹿な、と首を振り否定した。 「……あんなのうちの学校にいたっけ」  ぽつりと呟いたそれはどこか力なく、白く濁った吐息は冷たい空気に溶けていった。  一成は暫くこちらを見ていたが、うむ、と頷くと「それが正しい対応だ。アレは人の手に余る。関わらぬように過ごすのが人の道というものよ」といつもの掛け合いのように揶揄するような言い回しをし、からからと子供のように笑う。 「いや、一時はどうなることかと思ったが、これにて一件落着」  憮然とした面持ちの自分を後に、ぽん、と肩に手を置きその場を去る。その後姿はいつもの一成の姿だ。変わったのは自分。歯に何かが詰まったような印象が拭えず、予鈴が響く中その場に立ち尽くしていた。 「"一件落着"って――何が起きて、何が終わったんだ」一成、と懇願するように言葉を吐き出す。後ろから、横から、学生がどんどん自分の居る場所から追い抜かし、気付いたときにはもうこの場に居る学生は自分だけになっていた。孤立し隔絶される。言い知れない不安感が全身を襲う。 「俺は、確か」  乗り合わせたバスの乗客も運転手も異世界の住人。それにたまたま乗り合わせた自分はパニック障害のように発汗、過呼吸を繰り返す。放置された子供は泣き叫び喘ぎ苦しむ。  ――そう、自分は子供だった。母親とはぐれた子供と心境は似ている。  いつのまにかその場に座り込んでいた身体を起こし立ち上がる。何かに堰きたてられるように校舎を目指す。自分は一人ではないと確かめるために。