硝子の欠片を集める者     -------------------------------------------------------     【glas-gather】  http://glas-gather.org/     真皓 伽夜  [短編小説。]     -------------------------------------------------------    煙草を一つ摂る。 「やっぱり……奇麗だね」    呟く。    すべての生き物に与えられたソンザイ  いつかおわる? いつはじまる?  えいえんではないえいえん  すべてはパラドックス  君はきづいていたかい?    魚は泳いでいる  なににきづくこともなくただただ  きづいたきみはどうなってしまう?  きづかないさかなはどうする?  ねぇ ここが真実なの?    すべての詞にまどわされゾンザイ  いつかわかる? いつとける?  しんじつではないしんじつ  きみはしっていたかい?    君は彷徨う  なにをしることもなくただただ  問うたところでどうなる?  しったところでどうする?  ねぇ ここは何処なのかな?    くちずさむ            十二月十日    人が社会的であるというのは、古代の哲学者も言っていますが、実は最近になって『社会脳仮説』という理論を重ねている段階に入ってます。  『社会脳仮説』というのは、霊長類の社会性が脳の進化を促しているのではないか、という考え方のことを言います。集団ができると、競争が内部で発生します。そして、処理するべき情報の量が漸化的に多くなっていったために脳の発達を促した――大きな群で生活するにつれて、新皮質の比率は増大傾向にあるという統計結果はこの説の有力な証拠になっています。  個体同士を対象と見なす、個体個体を認識することが可能と言ういわゆる『心の理論』はここから発生したと考えられています。  『心の理論』はいわば意識と呼ぶものの呼称です。人間がこれ程の文明を築けたのは偏にこれがあったからではないでしょうか。  如何にして意識は生まれたか――これが今私達の目に前に立ち塞がっている難問となっています。    空気が服の上をひやりと包む。吉野は講義の時間を終えた後、外に出ての空気を胸の中に吸い込んだ。空を仰ぐと、決して鉛色ではない乳白色と青灰色が混淆したような雲が空を覆っていた。きっと雨雲だ、と吉野は思う。 「吉野っ」  突然自分の名前を呼ばれて吉野は肩がびくっとあがってしまった。 「あ、瑞樹先輩。なんです? 今日は……もうオフ?」  黒い髪を腰まで伸ばしており、傍目からは細過ぎと言われそうなほど華奢な体格だった。彼女は吉野が入っている部活の一つ上の先輩で、吉野をいつも何かと苛めの対象にしている。けれど吉野も黙ってはいない。反撃をすることはあるが、それが成功したことは吉野はまだ経験したことがない。 「うん、そうね。後は真司のとこにちょっかい出しに行くだけだな」透香は赤く火照った頬ではにかんだ。  透香が言った「真司」という名前は、彼女の一つ下の後輩の男の子の名前だった。 そして吉野も真司と同い年でもあり、友人でもある。吉野は、彼等と一緒にいる時どういう態度をとって良いかに迷う。透香と真司は声を揃えてそんな必要は無いというかもしれない。しかし何かとややこしい問題が生じやすい関係でもあるため、吉野は一線を引いた態度をとり続けるしかない。  真司は彼女と同じぐらいの背丈だった。そして目を引くのが、大学生と思えない童顔であることだった。笑うと頬に笑窪が出来て、危ないお姉さんの加虐心を助長しそうである。彼女は、世間体的に言うとそんな彼と付き合っている。仲の良い二人を見て羨ましがる連中は数知れない。 「ははっ……、真司……南無阿弥陀仏」 「なんだと」  瑞樹は指で吉野のでこを指で弾いた。ぱちっ、と痛そうな音が響く。 「いたっ、なにすんだ―……」 「ふふ、先輩を敬え」 「誰がです?」 「はん、性懲りもなく」 「くぅ……フリーダイヤルオー人事オー人事してやる」 「これはスキンシップだろ?」 「冗談ですよ。真に受けて……びびってます?」  今度は吉野の頬を抓んで引っ張る。 「あ、そういえばさ、クリスマスもうすぐだよね。どう過ごすの? 吉野は。気になるなぁ。いるの? つきあってるヤツ」 「いませんよ」 「あら、即答……」 「だって……何でみんな面倒臭い思いしてまで付き合うんです? 恋をしない束縛と監視だけの恋人なんて願い下げです」 「ホントに、そう思ってんの?」 「ええ」 「ふぅん」 「大切な人はいますよ……でも、それはそんな簡単な気持ちで接したいわけじゃない」 「そうか……理想は高いぞ」 「それを言われるとイタいですけど」 「おねぇさんは応援しているぞ!」 「はは……」  瑞樹は雪をざくっと踏みしめながら校門の方へ向かい、やがて吉野からは見えなくなった。  友達にはさんざん言われたことだ。経験。試し。チャンス。  でも、要らないものを受け取って突き返す事が分かっているのにどうして受け取れるだろう……  分かってる。何でこんなに揺るぎないのか自分でも不思議なんだから。  あなたじゃない。たとえあなたが僕のことを好きでも僕はあなたを好きにならない。  運命、というそんな安易な言葉じゃないものが手繰り寄せられ、紡がれて生ずる感情。それを求めているのかもしれない。  息を吐くと、空気は白く濁った。なんだかそれが吉野にはとても愉快だった。  いつもは透明な、何にも干渉されないぞとでも言うかのように存在する空気というものが冷えたとき、自分の息を吹きかけるだけでどうしてか姿を現す。  それが、嬉しい。            十二月十三日    朝の颯爽とした風が吉野の体を擦り抜ける。自転車は、同じ方向に向かう人たちをどんどん抜かしていく。青灰色の空は、朝焼けで浅葱色に照らされていた。瞼を閉じると、時折顔を覗かせる太陽が赤と白に明滅する。  吉野は、自分の頬が直射日光で紅く火照っていると思ったのだが、触れると同時に風に冷やされていることに気付く。  (今日は彼女に会えるな……)  そう思うとこの憂鬱になりそうな空を見ても、気持ちは晴れやかになっていく。  彼女は、窓側の前から3番目の席にいつも坐っていた。吉野は彼女の後姿を確かめるようにして彼女の二つ後ろに坐り、その間の約二メートルほど後ろから彼女の後姿を眺める。彼女は先生の顔をじっと見たり、窓の外を眺めたりと、よく動いた。先生の顔を眺めているときの彼女の真剣な顔つき。そして外を眺めているときの時折見せる物憂げな表情。後ろから眺めて見ていると、一時間内のその表情の変化には、驚かされる。  そして、その動作が愛しい。彼女にしてみれば、自分のことも知らないような人間が彼女の後ろ姿をいつも見ているとは想像だにしていないだろう。自分でも可笑しい、と思う。彼女を眺めているという行動に。彼女は僕のことを知っているんだろうか。と、何度思ったことだろう。そして不安になるのだ。その他大勢の一人、いや……その他とも思ってないかもしれない、と。なにしろ存在感を抑えているため、元々の知り合いでもなければ目立つようなことは自分には決してない。それは自負している。  けれど、その中から見つけてくれたら……  吉野は自嘲気味に笑う。  そんなことは不可能に近い。奇跡や偶然を頼りにした、白馬の王子様をあてにする少女と同じ発想だ。  夢や愛が私にもあるのね、と自己愛に浸る瞬間。  それを冷静に分析する、感情のないと思われる瞬間。  そう考えている自分が愛しいと、自分の思考がかわいいと。            12月16日    真司は欠伸をした。 「おっきな欠伸だ」と透香は半ば呆れ顔で言った。 「喉の奥が見えるって」 「いいよ、歯磨きしたから」 「そういう問題―? ね、なんとか言ってよ吉野」 「僕は気にしませんよ」 「ほら」 「も―う……。ほれほれ掃除の邪魔だからあっち行きな」  透香は掃除機を武器にして、しっしっ、と手の平を縦に振った。  掃除機の喧噪が、部屋の空気を揺らす。赤い瓦の隣の家からも、違う音、違う機種かもしれない掃除機の音が聞こえる。休日は掃除機日和。こういった住宅街ではそう形容するに相応しい。家族はどこかに出掛けるよりも、家でくつろぎ一週間の家の垢を落とすことの方が重要なのだ。けれど、掃除機の音は吉野をいつも不快な気分にさせた。  だから吉野はいつも、雑巾が掃除機よりも活躍した。雑巾は労力と時間が多少なりとも掃除機よりもかかる。けれど、掃除機よりも綺麗になったという達成感があるのだ。消耗的なのは、電気が水に変わったということだけだけで。  窓を閉め切っているので、この部屋は俗に言う一酸化炭素中毒にやや陥ってると言える。二酸化炭素は十分すぎるほどこの部屋に貯まっている。  吉野は顎に手を当て考える動作をした。どうして二酸化炭素は空気を暖かくするのだろう……と。取り留めもなくそんな考えが過ぎる。吉野は化学は詳しい方ではない。読み囓っただけの知識なので疑問は浮かんでもそれは解消されない。けれど、分からない間の高揚感が何とも言えず好きだ。 「あれ、いつの間にか蜜柑切らしてる」 「そりゃ食べたからね」真司はコタツに寝そべったままで答える。 「蜜柑より文旦がいいなぁ……」 「早く言え。コタツに蜜柑は切っても切れない縁、必需品なんだから」 「誰が決めたのさ……」  真司はやや呆れ顔で言う。 「文旦の皮を剥くところが他の柑橘類よりも楽しいんだから」 「めんどくさいだろうが。皮は花形に開くのがいいんじゃないか。それにすぐ簡単に剥ける」  ふと、透香は何か思い立ったのか、手と手を合わせ優雅に微笑んだ。そして、真司を一瞥し、さっきの微笑みはどこへやらの風情でにやり、と笑う。  真司は何か悪い予感のようなものを感じた。 「仕方ないな。買いに行くか」 「ええっ! 寒いよ……」と、真司は情けない声を出した。  きっと、どうせ自分が買いにいくんだろ、と真司は思っているんだろう。  吉野には二人のやり取りが手にとるようにして理解できた。そして次の展開も容易に予測できる。 「うだうだ言うな。ついでにと言っては何だけど……夕飯も買ってきてくれる?」  いつの間にか透香は「買いに行く」と言うよりも「買いに行って」にすり替えていた。  けれど、これは透香には良く見られる現象だ。真司を扱使っている、というよりも真司に「依存」していると言った方が良いのではないか、と吉野は考える。きっと、透香は真司に全信頼を置いているのだ。  きっと。  真司はしぶしぶしながらゆっくりとコタツから這い出るて、ハンガーに掛けていたコートを取って袖を通す。痩せ型の真司がこうも厚着をすると、彼の小さい顔だけが浮き立って見えた。 「……で、買うものを紙に書いてくれる」  真司がそう言うと透香は、電話機の傍にあるメモ用紙に書いた。そして満面の笑顔を真司に向けた。逆に真司はその顔を見て苦笑のような顔をする。 「じゃ、よろしくね」 「はいはい」  半ば諦め顔で真司は言った。 「僕もついていきます」  吉野は立ち上がって言った。  いつもこんな調子だから、この二人をなんか放って置けなくなるのだ。  羨ましいと思う。 「そうか、んじゃよろしく」 「ごめんねぇ―……こんなやつだから……」 「誰が! なんだって……?」  透香は凄んで言う。 「なんでもないでぇす            十二月十九日    微笑むだけで感情は伝わる。  でも、言葉が欲しいと思う。  ついつい欲張ってしまう。  ついこの間まで消極的な態度しか頼らなかった自分が、今は何とか彼女に話しかけようと考えているから不思議だ。彼女はまた窓側の前から3番目の席に、いつもと同じ場所に座っていた。 「今日は先生来るの遅いね」  唐突だった。  彼女が誰かに話し掛けている。  その視線は紛れもなく吉野のほうを向いていた。吉野は暫く呆然としていた。  どうして彼女が僕に話し掛けるんだろうか。何かの間違いだろう。そう思って吉野は彼女が視線を向けている方向、吉野の後ろを一瞥した、が、後ろには誰もいなかった。  吉野が眉を寄せて怪訝そうに彼女の方を見ると。彼女は微笑みながら、首を傾げる事と首肯することを同時にした。不思議な仕草だ、と思う。  やっぱり、勘違いなんかじゃない。  その結論に至るのはほんの五秒だった。彼女の仕草。吉野の後ろには誰もいないと言う条件。彼女が吉野に話し掛ける理由。  それらを総合しても、僕に話し掛けようとして話し掛けたのは間違いなかった。 「え、あ……うん、そうだね」  咄嗟にそんな言葉しか出てこなかった。少女漫画のような吃った声が現実のものになったと、自分で思って心の中で苦笑する。 「昨日、男の子と一緒にいたよね。クリスマスの買い物……?」  男の子……ああ、真司のことか。 「買い物してたんだ」  どうもなかなか会話を発展できない。 「ただの食材探し」 「そうなの?」  彼女は前の席から身を乗り出して、吉野の顔を見ながら話そうとした。  間近で彼女の顔を拝むなんて事は想像したことがなかった。なんとなく自分の恋愛観が自覚できてきた。どうやら自分は自分の中の彼女を作り上げていたのだ。けれどその幻想を看破出来るほど、不思議な雰囲気を彼女は持っていた。 「三日後なのに、私何も用意してないよ。カードも」 「カードだけでも良いと思うけどね。面倒くさい」 「何用意したら良いと思う?」 「うーん、誰に、によるけど」  しまった、と言った後で思った。クリスマスなんて付き合ってると称する人たちの一大イベント、恒例行事ではないか。  もし、彼女に彼氏がいるのなら、プレゼントというのは他ならぬその人の為の物ではないのか。 「えっとね……お母さんと、姉と弟……かな」  僕は肩の荷が下りた気がした。そして胸を撫で下ろす。  安堵。  なら、おそらく僕にもまだ分があるというものだ。 「じゃあ一緒に……プレゼント探しに行こうか」  と、それとなく言い出してみる。彼女はその自分のセリフがあまりにも唐突だったからなのか、首をかしげた。やっぱり時期尚早なんだろうか。 「あっいや、そんな暇じゃないよね、ゴメン」  吉野は咄嗟に言い訳をする。断わられた時の布石は常に打っておかないと、あてが外れたとき僕はおかしくなってしまう。 「いいよ」  すると、屈託なく彼女は僕に向かって微笑んでくれていた。 「……え」 「いこっか。クリスマスのプレゼント探しに」  僕は暫し呆然としていたのだろうか。彼女が変に思って首を傾げるまで気付かなかった。「う、うん……」とだけ、返事をする。 「今度の土曜日で、ど?」  吉野は少し考える動作をして、なにか思いついたように指を一本立てる。 「猛烈に暇な日だったからね」と、僕は煙草を取り出しながら答えた。            十二月二十二日    街路樹は、違和感無く繁華街に溶け込んでいた。  最初からそこにあったかの錯覚。  商店街の道路の真ん中に植えられている電球が巻かれた欅の木は、自転車が通行するには些か障害物となる。今は通行人がその場で足を止めて欅の木を眺めるので、自転車側は退けて欲しいと思うのだろう。  欅の木は電球と華美な装飾品に被われていた。クリスマスという行事がお祭りであることを如実に示しているように、カウントダウンを液晶表示で掲げていた。  こういう日は設けても差し支えはない。寧ろ区切りというものがとれて良い。けれどそれで大騒ぎする人たちの気持ちが知れない、と吉野は思った。  何気なく腕時計に目を留める。  4:30とデジタルは表示している。空の真上を見上げると紺色に染まっていた。太陽が沈んでいく辺りだけが赤く照らされていた。  硝子越しに、人々が雑踏の中を行き交う姿が見える。吉野はそれを観察することに没頭する。どれもが違う顔をしている。服装も歩き方も違う世界でただ一人の人間が、外をたくさん歩いていた。形骸は溶け、虚ろになり、有耶無耶になる。硝子の向こう側そのものが小さなビットの集まりで、個人は集団に溶け、集団は背景に溶ける。  吉野にはそう見えて仕方がなかった。目に見えるものは背景。 「ありがとう。今日は楽しかった」  机を挟んだ向こう側で、彼女が微笑んでいる。彼女は外を眺めていた吉野を見守るようにして観察していた。今日買った荷物が床の面積を占めていて、この小さなテーブルでは脚の置き場がないと思えるほどだった。 「ほんと、楽しかったね。たくさん買ったしさ」 「お母さんには置物、弟にはカード、妹には服、こんなものよね。カードってなんでこんなに高いのかな。分かんないなぁ」  彼女は頬を膨らませてため息をついた。 「それ、千円ぐらいだったよね。多少手に入れにくいものだからプレミアムがついてるんだよ。嬉しがると思うよ、弟」 「そうね、きっと。そうそうこんな私に付き合ってくれたお礼といっては何だけど……はい」  そう言って、彼女は先ほど買った荷物を入れた袋の中を漁り、綺麗に包装された直方体の小さな箱を取り出した。  誰かに渡すプレゼントというようなものを自分に渡そうとしている。  まさか、とは思った。 「え……もしや……貰ってもいいの?」 「勿の論です」  彼女は微笑んだ。 「開けていい?」  と聞くと「勿の論です」と今度は深く頷きながら言った。  なにやら儀式みたいなやりとりだ。  吉野は包装を止めているテープを慎重に剥がしていく。彼女は楽しそうに吉野を眺めていた。  箱を包んでいた包装を取り、小さな紙箱を開けた。 「わぁ……」  中には袋に入った小さなシアン色のシンプルなものだった。 「ピアスです。吉野さん、ピアス開けてるから……私のイメージで勝手に決めちゃったけど、いい?」 「う、嬉しすぎる……」 「そんなに喜んでもらえるなんて……選んだ甲斐があるなぁ」  彼女ははにかみながら、細くした目が微笑んだ。おそらく照れの笑いなのだろう。僕もそれを見て、冷え切った心が温まる気がした。  すると、吉野も鞄の中から「じゃあ、はい」と言いながら、小さい包みを彼女に手渡す。彼女はふと何だろう、と首を傾げていたが、その意味に気付いたように突然声をあげた。 「えっえっええ――っ」 「あげる」吉野は短く言った。 「なんだろ……みていい?」  彼女は上目遣いでこちらを見た。 「クリスマスまで待ってて」 「いいけど……楽しみだなぁ、いったい何が入ってるんだろ」 「あ、一応光に透かしても見えないようにしたから」 「なんでそんなことするんですか、もう」  すごく嬉しい。こんなに打ち解けて話せることが。つい先日まで、見知らない間だったことが嘘のように……。  ふと窓の外を吉野は見上げた。窓の外はもう暗くなっていた。だが、女性と二人きりで夜一緒になる免疫が吉野には出来ていない。 「もう暗くなったね……家まで送るよ」 「え、悪いです」彼女は大袈裟に首を振って遠慮の意を示した。 「いいよ、こっちは多少遅くても平気だから。じゃあ行こうか」  少し強引だったかな、と吉野は後悔した。  そう思って彼女の反応を恐る恐る見る。 「うん」  と、彼女は一番素敵な笑顔をして見せた。            十二月二十五日    僕は驟雨が大好きだ。  金属、庭、屋根が雨という弦に触れて繰り出す三重奏。リズムよく屋根から落ちる水音はさしずめシンバルや大太鼓というところだろう。最高潮にはシンバルが場を盛り上げる―雷。  それは決して、騒音にはならない。違和感を覚えないバックミュージックのように、この雨の交響曲は眠りへと誘う鎮魂曲だった。  瞬間的に爆発し、一瞬にして消えゆく儚い雨粒……。  そう、これはカタルシス。  水溜りが撥ねる音がして、吉野はふと顔を上げる。  雨の音の中に、彼女の声が耳に届いた。 「吉野さん」  小走りで、彼女がやってきた。傘は彼女の小柄な体型からは少し大きめで、御椀形に沿った曲線のシアン色の傘だった。  シャッターの下りている古びた小売業のビニール屋根が、今降っている雨を凌いでいるのでここで待ち合わせをすることにした。幸い、ここで他に待ち合わせをする人はいない。同じ場所で同じように待ち合わせをする人が他にもいるとどうも落ち着かないからだ。  吉野は手を振って、「ここ、ここ」と言った。 「今日、雨になっちゃったね」 「うん、でも雨好きだからさ、いいよ」 「私も好き……」と、彼女は微笑む。 「……そう」  でも、雨が降るといつだって傘が邪魔をする。  傘で相手の顔も半分隠れてしまう。自分で、相手との距離を調整できなくなる。ましてや傘の範囲までが自分の空間だとすると、通りすがりとの人との接触事故は絶えない。大勢の人間が集まる繁華街なんかを雨の日に行くと、狭い道は傘で埋め尽くされ、傘屋さんは繁盛しているに決まっているんだから。  だから、出来るだけ雨の日には好きな人と歩くのは避けたい。 「ここで、待ったほうがいいかも。きっとこれ通り雨だからさ」 「たぶんそうよね。冬に雨が降るとやっぱ寒いけど」  ふふ、と爪先立って彼女はアキレス腱の運動をする。僕も地面を蹴って水溜りを鳴らす。  沈黙。 「――あの」  そう、ここで、言うと、僕は決めたのだ。  どんな結果になっても。 「?」彼女はあどけない顔で、僕のほうを見つめる。  僕は深呼吸をし精一杯微笑んで見せた。 「君のことが好きだよ」        彼女は私にとても優しく微笑んでくれました。  彼女自身は、きっと無表情で笑えていないと思っていたのかもしれない。  けれど、私にはとても素敵に見えたのです……  私の微笑みが偽りのものだから。  何とか自分の枠組みで理解しようと。  曖昧な純粋なものを排除して。  私はその枠組みの中を覗き見て、その遥か奥を見つめます。そうしていると、どうしても頭がクラクラして、脳の中枢を支配されたかのようになってくるのです。  そしてみえなくなる。  どうしても。  太陽が、笑顔が、自分の視界を遮っているのか私は瞼を閉じます。  これは希望なのでしょうか? ここにはない何かを求めるという自分の中で形になっていないものを……  窮屈そうに?  抜け出したい?  ここから。  彼女は、吉野美沙という名前の女性でした。  彼女と初めて会ったのは、彼が私の問いに答えてくれた一二月ではありません。そして、彼は私が彼を知らないものだと思っていたようです。そういうことは往々としてありますが、問題はそんなに単純ではなく……  私たちはお互いに気の知れた親友でした。私は彼女を知っていた、というよりも、むしろ彼女が突然私と話さなくなったのです。私はどうしていいかわからず、通り過ぎても目も合わさない彼女に、ただ呆然とするだけでした。だから、私が勇気を出して何ヵ月後かに話し掛け、彼女が気兼ねなく返答すると、信じられない程嬉しかった……。それでも、昔の私たちの関係のようにはもう戻れない。  彼女は確かに私と最後に話すまではごく普通の女性の格好をし、私とたくさん女の子同士として話もしました。何がいったい彼女を変えさせたのか。  彼女は気付いていていなかったのでしょうか。  若しくは知っていて、それでも信じられないものがあると……自明のことではなかった、ということなのでしょうか。  私にはわかりません。  それでも、彼女自身を私は好きだった。彼女の感情も、思考も。  やっぱり奇麗だね  彼女は、いえ、彼はそういいました。  君の感情が  そんなことはありません。私だって汚いことも知ってる。無垢と言うほど無知ではありません。  本当に、綺麗  それでも、彼は肯定します。  そういって、彼は呟き始めます。それは、煙草の煙で霞み、辺りの空気を充足させました。    すべての生き物に与えられたソンザイ  いつかおわる? いつはじまる?  えいえんではないえいえん  すべてはパラドックス  君はきづいていたかい?    魚は泳いでいる  なににきづくこともなくただただ  きづいたきみはどうなってしまう?  きづかないさかなはどうする?  ねぇ ここが真実なの?    すべての詞にまどわされゾンザイ  いつかわかる? いつとける?  しんじつではないしんじつ  きみはしっていたかい?    君は彷徨う  なにをしることもなくただただ  問うたところでどうなる?  しったところでどうする?  ねぇ ここは何処なのかな?    私はこの事実だけは、彼には言わないでおこうと思います。私も、それを望んでいるから。  望んでいるのは、彼の微笑だけだから。  それは私の記憶の中でひっそりと息づいています……  織り畳まれた空間認識は着実に私にとっての昔も今も焼き付けられていく。  私の身にかかる認識や事象は、世界の中の小さな欠片にすぎないと、彼は告げます。  記憶の残像は私の前に姿を現し、そして消えたのです。        私は瑞樹透香という。  私は吉野美沙のひとつ上の先輩ではない。  それは、吉野の妄想なのだ。  私は助手の真司とともに、彼女の治療にあたっている。吉野は口に出してはいわないが、おそらく私たちを彼女彼氏の関係だと思い込んでいるらしい。  だが、吉野の言うような、私たちが彼と彼女の関係という彼女の考えは実際は外れている。  彼女は私たちが兄弟ということを知らないからだ。  彼は、いや、彼女はいわゆる、記憶が分かれている。  ひとつの体にふたつの心がある、と、そういってもいい。  彼女も彼も、ふたりともそのことには気付いてはいない。  彼と彼女はひとつの体の中で会話をしている。  以前、だったか。  真司と私の前で、彼と彼女がどのように存在しているのかを確認したことがあった。  彼はあたかも彼女がそこにいるかのように振舞う。話をする。  頭の中で。  今まで誰も彼女の異常さに気付きはしなかったのは、そういう所以による。  だが考えてもみれば、彼にとって彼女は実在なのだ。彼女にとっても彼は実在なのだ。  どうやって、彼等は記憶の整合性を保ってきたのか。  彼等と周りの人間がコミュニケーションをすると、どこかに自分の中で矛盾点がどうしてもできてくる。それを埋めるため、吉野は都合のいいように記憶を刷り変えてしまったのだ。  私たちのことも決して医師と見ることはなく、この学校にあたかもいそうなキャラクターを仕立て上げている。  彼等に、絶対的な真実というものはない。  私たち、瑞樹透香と瑞樹真司は、彼等の治療の経過を辿って来た。  実際の性別と同等の人格を備えているはずの彼女は、滅多に出てはこない。彼を観察し、そして太母のように見つめている観察者のような存在。  彼のほうは、自分を吉野本人だと思い込んでいて、なおかつ主に表に出てきている。会話の主導権は彼の方にある。  彼は自分を男性ということを事実であるように思い込んでおり、そしてそれは実は女性であると……性同一性の混乱だと、もう一人の女性が思い込む……。  そして、治療者から見た彼女たちは、女性であり、そして、人格が二つあると思い込んでいる。  事実が錯綜して、入り乱れる。  彼らはまるで、夢の中で生を生きているようだ。  それも、とても幸せな、美しい夢。 「ねぇ透香……あの人たちは幸せなのかな」  真司は言う。その目はとても淋しそうだった。私はそんな弟の目を見て微笑むのだ。  そういえば、彼らもよく微笑んだわね…… 「幸せ……、なんじゃない?」        END