奇妙なアトラクター -------------------------------------------------------   【glas-gather】 http://glas-gather.org/   真皓 伽夜 [短編。「幸福と慈愛の果てで逢おう」の続編。]   -------------------------------------------------------  エネルギーや物質を絶えず外部から取り込みつつ、その過程で発生するエントロピーとともに排出し続けるような現象を非平衡開放系(Noneqilibrium Open System)という。化学反応において反応物質を補給し続けるようなケースが一例である。生体は最も高度に組織化された非平衡解放系であるといえよう。  非平衡解放系では、熱平衡の系には見られないような自発的秩序形成現象が見られ、パターン形式、リズムの発生、カオスなどはその例である。 「難しい本だな」  彼女が覗き込んだ影で、手元の本の文字が見えなくなった。激しい日差しが逆光を作り、栗色の髪の毛は金色になる。流れる髪を直そうともせず、髪は木に凭れ座っている私の肩にかかった。私が今読み耽っている本を見えにくそうに覗き込む。 「ん、まぁね。向こうの方に……」  と言って私は本から手を離した手を人差し指だけ立て、森に分け入る前の茂みの間を指した。 「落ちてたんだ」 「君にはなんでも拾う習性があるようだな」 「そう」私はやや前のめりになる角度で頷いた。 「本はまだいい。だが食べ物や生活用品まで、拾うもので賄わなくてもいいのではないのか」叱責する口調だが、表情は微々たる変化しか彼女に齎さなかった。  私は、いつか彼女に笑顔を浮かばせようと画策していた。それで思いつく。私は彼女に森の茂みに向けていた指を、逆の方向の彼女に向けた。  彼女は、向けられた私の指の先をじっ、と見つめ、それと同時に徐々に不機嫌になっていく様を私は観察することに成功した。ただし、笑顔ではない。 「私も君の習性の一環として拾われたというのか……笑えない冗談だ」  彼女は大きな瞳を細めて、私に視線の放射線を発した。 「そうは言ってないけど」と私は首を傾げた。 「まぁいい」  彼女のこの一言で、この議論はうち切られた。元はと言えば、私が珍しく冗談を言った所為ではあるのだろう。ただ、彼女にそれは通用しないらしい。  やはり手強い。  このような時空秩序構造を、熱平衡系での秩序構造(結晶構造など)と区別して散逸構造(Dissipative Structure)と呼んだ。熱平衡系での秩序は相転移を通じて現れるが、散逸構造の出現は分岐現象と呼ばれる。その例として、化学反応系でチューリングパターン(Turing Pattern)と呼ばれる物質の濃淡が示す縞状の模様が観測されている。 「ようこそ」 「ようこそ」 「ようこそ」  そこは、摂氏40度はある熱帯と化していた。ビル群が、もはや何の意味もない建造物として林立し始めたとき、同時に温度は疎らに分離し始めたのだ。私が旅をする場所は、世界から見たら非常に点のような活動しかしていないのにも関わらず、旅をする先々で寒冷区域であったり熱帯区域であったりと、その度にその場にあった服に合わせばならないから大変である。  そしてそこいた住人は、私達二人を黄色い歯を見せて笑って出迎えた。子供は私の前に出てきて大の字に手を広げて私の歩みを止めさせると、今度は手招きをして「おいで、おいで」という動作をした。そのように見えた。 「面白そうだ、行くぞ」  私は足早に彼等の後について行く彼女の後ろ姿を追い駆けながら考えていた。  彼女は心中では笑っていたのだろうか。そうかもしれない。旅をするということは未知の物に触れることでの高揚感を得るためといっても過言ではない。ここは、閉鎖された未知の空間に私には思えた。 「おやまぁ」  とその子供たちの母親は、大袈裟といえるほど目を剥いて私達を見た。 「旅の……ヒトかい?」 「……そんなところです」 「若いのにねぇ」  この世界で、若いからという概念はさほど関係ないような気もした。現にこの少女は私より若いはずだが同行という形で旅をしている。  私は、未だに彼女の旅の理由を訊いていない。訊く必要はない、と思っているからだ。 「すこし驚きました。この地区は言語を扱えるのですね」  実際、私達と同じヒトという種でありながら、言語を知らない地区を私は見たことがあった。  地区というのは、誰かに統括されて予め決められ行動制限された、と言う意味ではない。誰が決めたわけではなく、集落が点として一定の間隔を保ちながら住居を築いているように、地区は外的な要因と内的に発生した要因があって間に境界が出来ていることである。  その境界は、物理的遮断でも、固まった集団どうしに出来た他者という認識でもなんでも良い。言語を忘れた地区。それは言語を必要としなくなって適応した新しい種なのだろう。  だから、私がそんなことを口走ったものだから、母親は「ええっ」と口を丸くして叫んだ。 「それも旅で会ったのかい?」 「まぁ、そうですね」  先ほどから、私の横で座って出された茶を飲んでいる彼女は黙ったままだった。 「あなた方はずっとここで暮らしているのですか? 外へは?」 「外? なんじゃそれは」 「……わかりました。結構です」  必ず、出会った人にはこの「外に出て行ったことはあるのか」という質問は投げかけるようにしている。けれど、いつも同じ返答しか返ってこないものだから些か飽きてきてしまった。私は内心溜息を吐く。母親は、旅という言葉を知っていても、その概念を理解はしていないと推測した。おそらく、私以外に訪れたであろう旅人から、旅、という言葉を鵜呑みにしたに過ぎない。  Tabi、に聞こえたことだろう。 「挨拶」  突如、彼女は口元から茶を離し、そう言った。 「彼等の挨拶は……なぜあの言葉なのだ?」 「ああ」母親はにっこりと微笑んで手を上向きに掲げて見せた。 「あれは口癖なのよ。旅人に会ったら子供達喜んで……」  では、あの言葉自体の意味はなかったというのだろうか。少なくともこの母親にその意味は理解できていないと見える。おそらく彼女はそれを確かめたくて話しかける時を窺っていたのだろう。全く、彼女の機転の良さには舌を巻く。 「あの子達に話してあげてちょうだい。旅で見つけたことなんか……」  私は微笑んだまま何も返事をしなかった。  流体では、ベナール対流(Benard Convection)がよく知られている。そこでは二枚の水平な面の間に水などの流体を入れ、下面を上面より高温に保つ。この時上下間の温度差が小さければ流体は静止したままである。しかし温度差がある限度を超えると、下方で暖まって軽くなっている流体は突然浮上をはじめ、上方の冷たい流体と入れ替わりこれが継続する、いわゆる対流が発生する。 「こんばんは」  その扉は木材を縦列に紐で組み合わせており、頑丈とは言い難い。私はその扉をこんこん、という音をさせて言った。  すると、中で待ち伏せしていた、私の膝の少し上までしかない身長の子供達は一斉に飛び出してきて、そして勢いに乗って私の臑に衝突した。 「……こんばんは」 「こんばんはっ」  一人は少女、二人は少年だった。衝突したのは少年達で、少女は私の衝突した少年に呆れたように部屋の中にいた。 「こんばんは」  彼女もまた彼等と同じ言葉で返事をした。 「君たちはずっとここにいるのかい?」私が訊いた。 「いやいや、僕はいつかここを出て行くよ」もう一人より、少しそばかすの目立つ少年が答えた。 「どうして?」 「だって旅人さん楽しそうに他の場所のこと話すんですもの。て行きたいわ、そんな楽しそうな場所」 「お母さんはどうするんだい」 「いいよ、僕たちを育ててくれたけど、それ以上に外の事の方が気になるんだもん」 「そうか」 「ここを出たら今度はどこに行くの?」私の相方より背の低い少女が尋ねた。 「さぁ……ここじゃないとこだよ」子供に対する答え方ではない、と思いつつも、それ以外に答えようがない。 「そう……」 「ようこそ」  今まで私の傍らで一言も発せず、聞き手に徹していた彼女が口を開いた。突然のことに、子供達は驚きと引きが少し混ざったような微妙な表情をした。無理もない。彼女のこの突然の挙動には慣れが必要だからだ。すると、栗色の髪を掻き上げながら、彼女は微笑みもしない顔で目を伏せて、三人の子供達を見る。 「これは、挨拶ではないのだな」  その次に、彼女は驚くべき事を言った。一緒に連れて行ってという意味なのだな、と呟くように彼女は続けた。子供達は懇願の意を表明するように私達に縋り付いてきた。 「連れて行って」 「それは……」  私の旅の目的が、この子ども達のように新しいものを見つけようと言う好奇心に満ちたものだったらどんなに幸せだったろう。  好奇心を持って世界に旅立つ子供。新しい世界への開拓。世代は変化し、新たな別の生物になっていく子供。  母を喰らい呑み込んで、  子供は旅立つ。  カオスとは本来混沌を意味するが、T・リーとJ・ヨークが1975年に「Period Three implies Chaos」という衝撃的な発表をして以来、化学では不規則な決定論的運動をカオスと呼ぶようになった。 カオス運動が状態空間に描く軌跡の全体は、奇妙なアトラクター(Strange Attractor)とよばれる。  私は木に凭れたまま、本を綴じた。  一度、木陰から出たら、日射しに目が眩みそうだ。ここの住人はこの日射しをものともしないのかもしれない、と考えると羨望の気持ちで一杯になってくる。  彼女は風通しの良い布を頭に被り、目を閉じている。瞑想でもしているのだろうか、と彼女の顔を覗き込むことは危険な行為だ。双眸を突如開け、拳が私の顔面に飛んでくることを考えると恐ろしくて私には出来ない。  これ等の文献は、殆ど崩壊した建物に散逸していたものを、私が拾ったものだ。  私の知らない言語を説明してくれる意味の書かれた厚い書物もあり、一世紀前はさぞや便利だったのだろう。私はいつも何気なく本を紐解く。しかし、この本に書かれていることが真実であったのか、以前は真実であると思われていたのかどうかを、私は知らない。  今となっては。  その時の世代の人間が、一体何を考えているかを推し量ることは出来ても確信は持てない。今の世界は旅をしてみたところ、地区同士での外交はしていないと思える。個々人が細々と旅をし、交流を図っている程度に止まっている。交流やマーケットという言葉も忘れたかのように、原始的な生活をする人々。その間には大きな乖離がある。  他者という認識は何を生み出すのか。……何を壊すのか。  隣人はロストしていくだろう。  社会的な力、物理的な力、もしくは超人的な能力。それに伴う感情と意志があれば、何であれ可能になる。  好奇心とは力。  その根源は恐怖。  子供は何に向かって歩くのか。何に向かってその力は向けられるのだろうか。  それはとても自然な機構。自然なものに逆らう意志。何をしていくのかを見る目が私にあるだけで、感謝しなければならないのかもしれない。何に、かは分からないが。  たくさんの個々とたくさんの事象がある。  けれどそれぞれの無秩序に見えるものはどこか一貫性に満ちている。  それが収束したとき、観察者によって一つの軌跡を描くだろう。  酷く奇妙で、説明の付かない、  奇妙なアトラクターを。 「気にすることはない」  私は驚いて側にいた彼女が自分の服の裾を引っ張っているのを感じ彼女を見た。 「彼等は私達がいなくとも、いずれ行くだろう」  彼女は私を見ていた。おそらく怖い顔をしていたのだろう。彼女は真摯な眸で私の顔を覗き込んでいる。  私達は彼等の申し出を断ったのだ。彼等を彼女のロジックで説き伏せるのは難しかったようで、最後には私が宥めて、母親に一礼し、逃げるようにしてあの家を去ったのだった。 「そうだろうね。あまりお薦めはできないけど……彼等の力を止めることは出来ない」私は頷き、「強すぎる力は隣人をも殺すけど、ね」  そう彼女に言って微笑んだ。  力と感情と意志があれば、なんだって可能になる。  隣人はロストする……。  酷く当たり前の、恐ろしい事象。今笑い合い、語り合っている隣人が自分にいつ刃を突き立てる。たとえばもしある人物に対して言葉に表すことの出来ない感情的な衝動を持ち、ちょうどそのとき目の前に人体を貫ける刃があったとすれば、躊躇わずその胸に刃を突き立てるだろう。私の横で眠っている彼女もまた、私を殺すことが可能で、私もまた、彼女を殺すことは可能なのだ。  こんな思考をしているものだから、いつか自分は同じ人種であるヒトを殺めてしまうのかもしれない。そんな思いが過ぎる。その思いですら、自分に良心の呵責を感じさせない。  私はどうして生きているのだろう? 思考しているのだろう? おそらく、思考は際限なく膨らんでいき、生命として機能しなくなるまで続くだろう。  そう、いま私がこうして連続性のない単語や事象を繋げているように。  生きているという観念。それは何なのだろうか。エネルギーを取り込み排出するその一瞬には、物理的な相互作用のみで時間は介在していないのだ。それにも関わらず、私には自分だけの時間を持ち、自分だけの空間がある。  私の中に存在できるのは、私だけ。  そしてそれはいつか溶け、拡散していく。  どうして、分かりたいと思ってしまったのだろう。どうして他人というものがあるのだろう。なぜ、自分というものがあるのだろう。  そしてそれは生命と周りの物質の境界条件の問題でもある。  一人で旅をしていたときにはなかったこんな想いが、最近になって感じるようになったのだ。これがもしかしたら、孤独という言葉を生み出した感情なのかもしれない。そして他者を知り、外を知り、孤独という文字を知ってしまった。  暫く考え込んでいた私を彼女は静観していたようだ。  私が顔を上げると彼女は、ふむ、と顎に手を当て私を見た。 「止めることは出来ないだろうな。大きな流れでひとかけらを止めても、流れは止められない。……もしやこれから彼らを止めにでも入るつもりか?」 「そんなことはしないよ、分かってるさ。私が彼等を止められる度胸があるように見えるかい?」 「ないな」  彼女は即答した。それも嬉しそうに。いや正確には嬉しそうに見えた、なのだろう。錯覚かもしれない、彼女が少しでも嗤っているように見えたのは。 「だろうね」  私は溜息混じりに息を吐いた。  彼女の反応の乏しさにも、私は孤独を感じている。  だから、どうにかして彼女を理解したいと思い、何度か彼女の感情を動かしてやろうと、実験を試みていたのだ。彼女が一体どんなことで感情を動かすのかについては、今までの観察からでも、分かることはなかった。どうにかして、自分にその目を向けさせたかった。これが、孤独の始まり。孤独は、生きているという実感の幻想を私に感じさせ、私とは違う未知の生命を、彼女は齎した。  ……悪くない。 「隣人、か。君にとっての私と、私にとっての君もそうだろうね」  私は彼女を見つめながら言った。彼女は怪訝そうに顔を傾け、眉根を寄せた。 「私にはそこまで君に対する力を望んではいない」 「隣人だからこそ、お互いにかかる力は強いって事だろう?」 「そうだ、力はカタストロフィーを早める。私はその相手をしたくはない」  彼女はどこまでもはっきりと言う。いっそ爽快感すらある。 「仕方ないよ……気にしてるんだから」 「は?」  大収穫だった。  見たことのない彼女の表情が刹那垣間見えた。  これで満足し、以降の観察を、暫くは休ませて貰うことにしよう。 「君のこと」  引用部分は 『imidas2001』から抜粋           END